20
彼女からその言葉を聞いたとき、僕はとても辛く苦しくなった。
僕は○○を生かしてあげたいと思って、腹を括り真実を話した。
それなのに僕は、一番聞きたくない言葉を彼女の口から言わせてしまった。
『私、山の神様に奉納されなきゃいけないんです…』
死ななきゃいけない、そう言った彼女はとても本音を言っているようには見えなかった。
○○も同じだ、村人と同じ。
仕方ない、と自分を騙して納得させているんだ。
「――ねぇ、君はどうしてあの時“死なせて”なんて言ったの」
『それは……、人柱の私が汚される前に死なないとって思って……』
やはり、あの山賊たちには運悪く追いかけられていただけのようだ。
それもそれで問題だが、未然に済んでいるのだからこの際気にしないことにする。
きっと小平太と長次が懲らしめてくれただろうし。
「今でも死にたいって思ってるのかい」
『――思ってる。私、死ななくちゃ…、だから山へ連れて行って』
「本当に? 」
僕は彼女を問い詰めた。
僕は真実が聞きたい。
○○の目をじっと見つめて、怯える彼女の肩を掴んだ。
無意識に僕の手は力み、声を荒げていた。
「君は、本当に死にたいのかい」
答えてくれ。
「君は本当に――――」
『し、死にたくないよ……』
○○の両目からは大粒の涙が流れ始め、やがて子どものように泣きじゃくった。
僕は安堵した。
「うん、本当のこと教えて…」
『本当は、本当はね…死にたくないの……。でもね、私、……村のために死ななくちゃいけなくて』
僕は○○を抱きしめた。
あまりにも彼女が泣くから、どうしようもなくて、僕の内側に溢れる村人たちへの行き場のない憤りを沈めるように、強く強く抱きしめた。
○○は温かかった。
「なら、生きて。僕たちのために生きてくれ」
『え……』
「生きるんだ、○○」
僕は○○を離して医務室の日記帳を取りに行った。
呆気に取られている○○の目からはもう涙は流れていなかった。
「君は覚えていないかもしれないけど、この学園で君は色んな人と出会い、日々を送ったんだ。字は書けないみたいだったから、毎日君から聞いたことを代筆したんだ」
日記帳を開いてみせる。
○○は何度も瞬きをしながら、興味深そうに覗き込んだ。
日記帳を捲っていき墨で書かれた字の羅列を目で追っている。
『こんなに……』
「覚えてないかい、君がここに来てからもうずいぶん日が経つんだ。読める? 」
○○は首を小さく振る。
僕は子どもに読み聞かせるように文字を指差しながら読んでいった。
「小平太、体育委員会とバレーをした」
『こへいた…たいいく、いいんかいと…ばれーをした』
「生物委員会と蛇のジュンコを捜索」
『せいぶついいんかいと、へびの、じゅんこを、そうさく……』
僕の言葉をゆっくりと復唱する。
あまりの必死さに自然と頬が綻んだ。
『あ……』
日記帳に挟まれていた栞を○○は掴んだ。
それを顔の高さまで持っていき、まじまじと見ている。
「これかい?綺麗だろう」
『――見たこと、ある』
「え……」
思いもよらない返答に僕は言葉を失った。
『見たこと、あるの!何て言ったかな…えっと……』
頭を抱えて思い出そうとする○○に微かな希望を抱きながら、僕は日記帳の該当部分を遡った。
勿忘草、そう書いてある記事は一つもない。
ただ、可能性としてありえるものは一つだけ見つかった。
『――蝦夷紫』
「これが、エゾムラサキ!? 」
『――って言ってた、男の子が……』
僕の手によって開かれている日記帳の該当部分には「エゾムラサキ」という単語が書かれている。
彼女の記憶が、思い出が戻るまであと少し。
「思い出して、○○」
祈るように名前を呼ぶ。
どうか、僕を、僕たちを思い出してくれ。
『男の子が、二人の男の子が……小さい……空色の……』
「あぁ、思い出せるかい?彼らの顔と名前を……」
黙り込んだ○○の次の言葉を待つ。
……はらり。
静かな医務室に紙が床に落ちる音がした。栞が滑り落ちた音だ。微かな音、ほんの小さな音だった。
少し開けられた障子からそよ風が入ってくる。
それはほんの一瞬の出来事なのにとても長い時間のように感じた。
二人分の呼吸音。
衣擦れの音、僕の髪が背中を流れる音。
いつもは気付かないような音に包まれていた。
手は汗ばみ、祈るように僕は両手を握りしめる。
『伊作君…』
僕が床に落ちた栞を拾おうと手を伸ばすと、○○の口が小さく動き、消えそうなか細い声で僕の名前を呼んだ。
「ん、なんだい?」
『……伊作君、伊作君! 』
○○が僕の名前を連呼する。
力強く、彼女は何度も僕を呼んだ。
『私、あの……、私、全部思い出したの』
「え、ほんと? 」
『うん、喜三太君と金吾君とその花を見た!この学園のみんなと過ごしたこと、全部、全部思い出したよ』
「うん、うん! 」
彼女の顔は生気が蘇ったような清々しい表情をしていた。
今までの○○からは感じたことがなかった雰囲気が彼女を覆っているのを感じる。
まるで初対面の人を前にした感じだ。色々なものから解放された彼女の顔、初めて見た。
そこで僕は確信した――○○は全てを思い出したんだ、と。
僕の頬に一筋の涙が流れた。無意識に流れたそれを僕は袖で拭い、隠すようにはにかんだ。
彼女の大きな目には情けない顔をしている僕が映っていた。――あぁ、何もかもが初めてだ。
○○のこんなに生き生きとした顔を見るのも、生きた目を見るのも、口調も、声の大きさも、笑顔も、仕草も、初めてだ。
しかし嫌では無かった、むしろ喜ばしく、嬉しかった。
『こうして挨拶するのは初めてね、私は○○。今まで本当にありがとう』
「改めまして、僕は善法寺伊作」
あんなに嫌いだった自己紹介がこんなにも嬉しいことになるなんて、思いもよらなかった。
待ち望んでいた時がついに来た。
僕たちは互いに向かい合って頭を垂れる。
そして笑いあった。
「おかえり、○○」
『……ただいま!伊作君』
僕は床から栞を拾い上げて○○の前に差し出した。
「お近づきの印に、これをどうぞ」
――――――勿忘草の栞を君に。
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