小説 | ナノ


  11


今朝もいつもと同じ、○○は昨晩のことを覚えていなくて白紙の状態でおはようを告げた。
蛸壺に落ちた時に負傷したと思われる足首と掌の擦り傷も、跡形も無く消えていた。
朝一番に医務室を訪れたのは五年ろ組の竹谷八左ヱ門だった。
昨晩の○○の第一発見者とあって、きちんと自分の目で○○が生きていることを確認したかったらしい。
当の本人は何のことか分かっていないようで悠長に自己紹介をし、竹谷は生存確認ができたことに人心地がついたのか、寝起きの○○の頭をガシガシと撫でていた。

「竹谷、○○も食堂に連れて行ってあげてくれないか?」
「はい、勿論です!」
「○○、朝ご飯を食べておいで。ちゃんと挨拶するんだよ」
『うん…』

竹谷と一緒に医務室を去った○○を見送って、一度自室に戻った。
今日は快晴になりそうだし、○○の布団も干しておかなきゃ。

○○が来てから確実に仕事は増えた。
起床時間も少し早くなった。夜眠るのも遅くなったし、何より保健委員の仕事の日じゃなくても医務室にいることが多くなった。
でも大して苦ではなかった。
何よりも彼女の恐怖と苦しみの前では、僕の苦労なんかはちっぽけに思えるからだ。
目が覚めたら知らない人がいて、知らない場所にいて、自分のことは思い出せなくて、親も故郷も分からない、自分が昨日何をしていたのかさえも分からない。
そんな状況に耐えている彼女の力になれるのなら、僕はなんでもしようと思った。
いつか、いつの日か、僕が自己紹介をする前に彼女の口から僕の名前が呼ばれる日が来るように、今は踏ん張るしかないのだと自分に言い聞かせる。

「何難しい顔してんだ」
「あぁ、留三郎。おはよう」
「飯行くぞ」
「うん」



◇◇◇



僕は薬草園の薬草たちに水をあげて医務室に向かった。
今日の保健委員の仕事は後半だ、前半は一年は組の乱太郎が担当だから早く代わってあげないと。

「乱太郎、お疲れ様。あとは僕が代わるよ」
「伊作先輩!」
「○○はどこいったか分かるかい?」
「さっき喜三太と金吾が連れて行きました」
「そっか、ならいいんだ」

救急箱の補充を終わらせた乱太郎が棚の上にそれを乗せる。
医務室の前の廊下が少し騒がしくなったかと思ったら医務室の障子が二人の忍たまによって開かれた。
福富しんべヱと摂津のきり丸だ。
どうやら乱太郎の仕事が終わるのを見計らって迎えに来たらしい。

「乱太郎、仕事終わったー?」
「うん、終わったよ」
「じゃぁ今日は木登りして遊ぼうよ」
「うん、いいよ!」

僕は薬でも挽こうと薬研を取り出して、薬草棚から薬草を数種類選んだ。
あぁ、そうだ!と医務室を出ていこうとしたきり丸が乱太郎としんべヱに待ったを掛けて僕の方へ歩いてくる。

「伊作先輩、これ」

きり丸が懐から出したのは、僕が長次に頼んでおいた勿忘草の栞だった。
深緑の紐が通された栞には青い小花があしらわれている。

「ドケチのきりちゃんが人に物をあげるなんて…珍しい!」
「俺だってタダで人に物なんてあげたくねェけど、これは中在家先輩から預かってきたもんだから」
「ありがとう、きり丸」
「中在家先輩が配置から紐決め、裁断まで全部やってたんですけどなんか特別なものなんスか?」
「うん、どうしてもってお願いしたんだ」

もう一度お礼を言って三人を見送った。
この栞を見る限り、長次もこれに願いを込めてくれたらしい。
早速活用しようと日記に挟んだ。



「おかえり○○」
『ただいま…』

夕飯を取り、風呂にも入った僕は医務室で○○の帰りを待った。
くノ一長屋の方から戻ってきた○○はくノたまたちに連れられて帰ってきた。
僕は火を灯して筆を取る。

「○○、今日は何をやったのか教えてくれるかな」
『今日…?』
「うん。実はね、毎晩君がその日経験したことを日記に書いているんだ」
『そうだったの…。今日はね、えっと、金吾君と喜三太君と一緒に蝦夷紫っていう花を見たの』
「エゾムラサキ?」
『喜三太君と金吾君の故郷の方にも咲いているんだって』


どうやら薬草園の裏は古い石垣があるため、そこに喜三太が大好きな蛞蝓がたくさんいるらしく、そこで蛞蝓の収集を行っていたらしい。(○○は勿論触れなかった)
その後、体育委員長の小平太に捕まって四人でバレーをしたみたいだ。
バレーといっても人数が人数なためにボール回し程度だと思うが。

「楽しかった?」
『うん!小平太君が手加減してくれたから…。今度は委員会活動にまぜてくれるって言ってたの』
「そうか、それはよかったね」

もう既に君は体育委員たちと一緒に活動したことがあるんだけどね、という言葉は飲み込んだ。
栞を挟み日記を閉じる。
疲れているのにあまり長居しては彼女が休まらないと思い、早々と医務室に鍵を掛けて自室に戻った。

そういえば、先程○○が言っていたエゾムラサキとは一体なんだろう。
やはりあの時聞いておけばよかったか、記憶が失くなるというのは聞き返すということが出来ないのか、困ったな。僕は一人ため息をついた。


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