小説 | ナノ


  06


本日の授業も終わり保健委員の当番のため医務室に向かった。
医務室では○○と校医の新野先生が談笑していた。

「おや、伊作君。今日は君が当番かい?」
「はい。こんにちは、○○さん。僕は善法寺伊作。君とは毎日話しているんだ」
『え、そうなの?ごめんなさい私……』
「いいよ、わかってる。少しずつ思い出していこうね」

○○との会話ももう慣れた。
一番始めに自己紹介をするのも、○○が毎日会っているはずの僕の顔を忘れるのも、もう慣れた。
だから何も思わなくなった。
悲しいとか寂しいとか、最初の頃は感じていたはずなのに最近ではめっきり感じなくなった。
慣れるって恐ろしいことだ。

「伊作はいるか!?」

障子の向こうで誰かに呼ばれた。
声からして小平太だろう。

「いるよ」

返事をすると荒々しく医務室の障子が開かれた。
深緑の制服が目に入る、僕と同じ六年生の制服の色だ。
やはり六年ろ組の七松小平太だった。

「伊作!○○を借りてくぞ!」

え?

小平太は返事も聞かずに○○を担ぎ上げて医務室を後にした。
ピシャリと閉められた障子のせいで僕の視界は白に遮られ、戸惑いを隠しきれない声が喉から出かかった。そんな僕を尻目に隣の新野先生がくすりと笑う。
ほんの一瞬の出来事に頭がついていかない。
なんだったんだ?嵐か何かか?
数回瞬きをして医務室を見渡す。変わったところは○○が小平太に連れて行かれ医務室にいないことだ。

「気になるのかい?」
「…まぁ、ちょっと心配で」

「伊作君、医務室の換気をしようか」

相変わらず新野先生は微笑んだままだった。
先生の意図をやっと読み取った僕は立ち上がって医務室の障子を開ける。
○○が体育委員会に混じって準備運動しているのが見えた。
彼女とは初対面だろう体育委員たちもまだぎこちないながらも○○を受け入れているようだった。
小平太が○○を新入生のように扱っているせいか、まるで昨日も一緒に委員会活動をしていたかのような馴染み具合である。こういう時、小平太の対人能力は尊敬に値する。

「今日の委員会活動は何をやるんですか?」
「おお、よく聞いてくれた滝夜叉丸!今日はなぁ、バレーするぞ」
「バっ、バレーですか!?」
「なんだ不満か?仲良くなるには球技が一番だろう!だからバレーだ」

一瞬にして体温が下がった気がした。
おそらく小平太以外の体育委員も僕と同じだろう。
彼らは小平太の常人離れした体力と馬鹿力、怪力を熟知しているからだ。この体育委員長のせいでどれだけのバレーボールたちが天に召されただろうか、そもそもいつから彼はバレーボールを破壊できるほどの怪力を有するようになったのか、もう覚えていない。

「準備体操はきちんとしないとな!」

そう言って小平太は大声で音頭を取り、体育委員と○○はそれに合わせて屈伸運動から始める。心なしか○○が楽しそうに見えた。
僕は満足して障子を閉める。
「もういいのかい?」と問う新野先生に「ええ」と返事をして、救急箱の中身確認作業に移った。
外からは騒がしい声が聞こえてくる。小平太の本領発揮と言ったところか……怪我しないといいけど。
とてもバレーボールをしているとは思えない音が聞こえるが、おそらく滝夜叉丸がなんとかしてくれるだろう。彼は先生方も匙を投げるほどの自惚れ屋だが委員会での面倒見は凄まじく良い。
滝夜叉丸に全てを押し付けながら作業を続けていると、新野先生がゆっくりと口を開いた。
先生は薬研で薬草を挽きながら僕が医務室に来るまでの間の○○との会話の内容を教えてくれた。先生も○○の記憶喪失は演技ではないと思っているみたいだ。
よかった、僕の意見を肯定してくれた友人たちの誰よりも先生の言葉は僕を安堵させた。

「あ、そうそう。伊作君、柴胡がもう残り少ないんだ」
「じゃぁ採ってきます」

柴胡(さいこ)は薬草の一つ。
セリ科の植物で根の部分を乾燥させたものが薬用として使われ、主に解熱・鎮痛・消炎作用がある。
栽培できる薬草はなるべく学園内の薬草園で栽培している。元はといえば会計委員会から突きつけられた少ない予算の中でやりくりするために数年前に使っていない畑を当時の保健委員会で耕して植えたのだ。

図書室裏の薬草園に行くと隅に濃紺が見えた。五年生の制服だ。

「雷蔵かい?」

狐色の量の多い髪を結いている不破雷蔵(と思われる)が如露を片手に植物――毎日長次が世話をしている勿忘草――に水をあげていた。

「伊作先輩、こんにちは」

よかった、雷蔵だった。
というのも、この五年ろ組の不破雷蔵に瓜二つの忍たまがもう一人いるからだ。
彼の名前は雷蔵と同じく五年ろ組の鉢屋三郎、学園内で最も変装術に長けていて常に級友雷蔵の姿に化けており、目の前でも見破れないほどの実力の持ち主だ。変装の達人と呼ばれているだけある。
常に誰かの顔に変装しているから、彼の素顔を知る者はこの学園にはいないんじゃないだろうか。

「珍しいね、いつもは長次が世話してるのに」
「中在家先輩は今、図書委員会の当番なので僕が代わりに」
「あぁなるほど」

僕は柴胡を抜きながら泥を払って笊に乗せた。
また植えなきゃなと思いながら手を動かす。

「今朝の緊急朝会は驚きました」

雷蔵は保健委員会が保有する薬草たちにも水をあげてくれているらしい、ありがたい。
落ち着いた声音で発せられた言葉に僕は少し目を丸くする。
そうか、○○はずっと医務室にいたから五年生たちは見たことなかったのか。
すっかり忘れていた。僕自身は毎日顔を合わせていたので少し不思議な気分だ。そういえばそうだった。

「記憶されないって本当なんですか?」
「うん、本当だよ」
演技でなければね。

僕、まだその方とお会いしていないのでどんな方なのか存じ上げないんですけど…と雷蔵は困ったように笑った。雷蔵は優しくていい奴だ。優柔不断なところもあるが時に大胆に男らしく行動する。正直者で面倒見もいい。ただそれゆえに忍には向いていない、僕が言えたことではないが。

「忘れられちゃうのはちょっと寂しいですね」
「……そうだね」
「あ、そういえば」

何かを思い出したらしい雷蔵は薬草園の端から移動して勿忘草のもとへと戻った。
よく見れば薄青色の小さな花がこの前よりも増えている。
「『忘れる』で思い出したんですが、伊作先輩はこの花のお話をご存知ですか?」と彼は僕に問い掛けた。
僕はその花を見たのもこの前が初めてだったし、薬草の効能ならまだしも残念ながら草花にはあまり詳しくない。
知らないなぁ、と答えると雷蔵はにっこり笑って口を開いた。

「海を越えた異国の騎士が恋人のために川辺に咲くこの花を摘もうとしたそうです。しかし騎士は誤って足を滑らし溺れ死んでしまった。その時彼は恋人にその花を必死の思いで投げ渡し、”僕を忘れないで”と言い残したそうですよ」

いつもなら「くノたまが好きそうな話だなぁ」と軽く薀蓄として覚えておく程度だろうが、どうしてか今はこの話に魅了された。心の琴線に触れるとはこのことを言うのかもしれない。

「だからこの花の花言葉は『私を忘れないで』って言うんですって」

中在家先輩からの受け売りなんですけどね、僕こういう話好きなんです。三郎に言ったら「私なら足を滑らせるなんていう失態はしない」って素っ気なく言うんですよ。
鉢屋らしいね、と返せば雷蔵も首を縦に振る。

「ありがとう、とてもいい話が聞けたよ」
「喜んでもらえて光栄です、あ、じゃぁ僕失礼しますね」
「あぁ、水やりありがとう」

薬草園を後にした雷蔵を見送って、再び柴胡を摘む。
“私を忘れないで”か…。
急にあの花が愛おしく思えた。まるで希望の塊のように見えた。
薬草園の土の匂いがふわりと鼻を掠める。
今はとても穏やかな気分だ。


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柴胡情報参考:
http://hontonano.jp/hienai/500nDrugs_038.html

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