2014/02/09 (Sun) |
1.小説のテーマ 「勿忘草の栞」のテーマは後書きにも書いたように、「社会的な死」です。 後々詳しく書いていきますが、夢主は社会的に殺された存在として位置付けました。 つまり、心臓は動いているのに、死んだことにされた・生きていなかったことされた悲しい少女のお話でした。 2.毎日記憶を失くすのは結局、何? 科学的・医学的(?)に考えたら自己防衛又はショック性の記憶障害です。 しかし、神学的に考えるとそれは人身御供失敗による呪いです。 結局どっちやねん、って感じですがどっちでも良いのです。正解はありません。 現代を生きる私たちは超常現象や妖怪、神なんてものはあまり信じていません。近代以降、西欧から入ってきた合理主義を受け継いでいるからです。 おそらく小説を読んでいくうちに、「なんでいきなりRPGみたいな話になってるんだ」と思ったと思います。「山の神ってなんだ」「人柱なんか立ててどうするんだ」と思ったと思います。それは正しい考え方です。今を生きる私たちは室町時代の人々の思想や考え方を理解することはできません。当然です。 しかし、当時(室町時代)の人々は現代よりかは信仰心を持ち、様々な神や妖怪・超常現象を信じていました。なぜなら、本当に人身御供が必要だと考えており、実際に行われていたからです。今でこそ川の橋の建設や建物の建設は誰も死ぬことなく作られていますが、前近代では人柱を立てることで無事に建物などを完成させていたのです。 今回の小説では、なるべく考え方や思想を当時の人々に近付けたいと思い、私たちからみたら非現実的な「人身御供」というものを作中に取り入れました。 ゆえに、今の私たちが考える夢主の記憶喪失の原因は、夢主が受け入れがたい現実から逃げるためのショックから引き起こされた記憶障害と言えます。 しかし当時の彼ら(村の人々や伊作たち)は人身御供が失敗に終わったため、山の神が怒り彼女に掛けた、「神様の呪い」だと考えます。 両方正しいのです。 すっきりしない答えですみません。 また、「毎日記憶を失くす=世間一般では考えられない=人間ではない=妖怪」という意味も含んでおります。 村人が夢主の存在を隠すために使った代名詞としての「妖怪」と、人ならざる者になってしまった実際の彼女自身。 夢主は二重の意味で「妖怪」になってしまったことになります。 2.5夢主の死 (神さまの呪い説) 作中で夢主は、毎晩眠るたびに呼吸が浅く、顔に血の気がなくなります。 伊作にも言わせましたが「まるで死んでいる」ようです。 はい、彼女は眠りについている間は死んでいます。しかし本当に呼吸をしなくなったりしていまうと心臓が動かなくなったりしてリアルに死んでしまうので、仮死状態です。 しかし朝になると元気になります。また記憶も真っ白の状態から始まります。 朝を迎えると彼女はまた生まれ変わります。 留三郎が17話で『毎晩眠りにつくたび〜』と言っています。これはガンジーの言葉らしいです。 私としましては違うところで聞いたことがあるような気がするんですが、私の曖昧な記憶と合致するのはガンジーの言葉らしく、腑に落ちない感じはしましたが今回は彼の言葉を借りました。 イメージとしては、この言葉通りです。 夢主は毎晩眠りにつく度死に、朝を迎える度また新たな命として生まれる。 いわば輪廻転生を短い周期で行っているイメージです。 本来、夢主は人身御供に差し出されそこで餓死し、そして次の命へ転生することが決められていたんですが、途中伊作たちによって本来死ぬべき命が救われたので、そこでうまく輪廻転生が行われなくなってしまったのです。 しかし解脱のようにこの輪廻転生から解放される鍵となるのが、後述する合言葉・かつての思いです。 3.勿忘草 勿忘草は明治時代以降に日本に入ってくるらしく、このままだと室町時代のRKRNの時代とは噛みあわないのです。 ここでカステーラさんを介して一足先に輸入することで辻褄を合せさせてもらいました。 蝦夷紫は北海道・本州・四国に元来自生していました。 しかし厳密にいえば、勿忘草と蝦夷紫は違うんですが、花で見分けるのは難しく、しかも蝦夷紫は「ワスレナグサ科」なので、同じものと考えてもいいんじゃないかなと……。 つまり、喜三太や金吾は蝦夷紫は知っているが、勿忘草は知らない。 夢主は蝦夷紫を知り(喜三太たちに教えてもらう)、伊作は勿忘草を知る(長治に教えてもらう)。 しかしこの花は同一のものなので、これを記憶を思い出す鍵として位置づけました。 ちなみに、喜三太と金吾は相模の国に帰る時にでも見たんじゃないかな、という軽い考えです。 4.「私を忘れないで」 今小説で最も重要なワード。 伊作が夢主に思い、夢主は両親や村の人たちに思っていること。 勿忘草(の秘められた花言葉)を見たことにより、夢主は「私を忘れないで」というかつての願いやその時の思いを思い出し、記憶を取り戻すのです。 5.夢主と狼 小説内で夢主は生物委員たちと狼にふれあっているシーンがでてきます。 いくら生物委員会が躾けているとは言え、狼が初対面で怪しい奴に初っ端から懐くわけないだろうと推測できます。しかし狼たちは夢主にすぐに懐きます。 なぜなら夢主は、山の神に奉納された身(山の神に近い存在)だからです。 日本には昔、山の神の使いとして狼を位置づける狼信仰がありました。 夢主の村の人々が言う山の神は、山そのものという意味ですが本質的には狼です。 神の領域である山には村の人々は入れないので、山の神=狼(狼であることは村人は知らない)という設定です。 人身御供で山に出された人は(今小説では)山で餓死します。 (本来、人身御供をするときは殺してから供える方が一般的?らしいのですが、この村では生身で山に入らせて、餓死させます) その後、その死肉を狼や山の動物たちが食べます。餌があるので動物たちは村に下りてこない、村の田畑は荒されないということになります。この原理で夢主の村の人身御供が成り立っています。 6.人身御供について 夢主編(後)で書きましたが、人柱(人身御供)として白羽の矢が立った人間は人々の記憶から意図的に消されます。 しかし、ある日突然その存在がいなくなると、事情をを知らない子どもたちが不審がるので、大人たちが「妖怪」だと言って子どもたちを洗脳するのです。 つまり、村の大人たちが人身御供の人間の存在を「存在しなかった」ことにします。 「松助や夢主=存在しない=妖怪」という等式が成り立ちます。 ゆえに、幼いころの夢主が松助の両親に彼のことを訊ねても「そんな子はいない」と返されたのです。 伊作たちが夢主の村を訪れた時、翁(乙名)が真実を話さなかったのは、伊作たちにそれを言うことで領主に人身御供を行っていることがバレるのを恐れたためと、その会話が子どもたちに聞かれていたら、折角夢主を妖怪だと洗脳したのに、夢主が存在していたことを思い出してしまう可能性があるので、それを防ぐためもありました。 7.人柱の年齢 今作の中で、翁が夢主のことを「無事七つまで生きてこれた」と言っています。 当時、医療技術や生活水準が現代と比べて低かったため、乳幼児の死亡率は非常に高く、避妊技術も無かったので、子どもはたくさんできるが無事に育たないという多産多死社会でした。 乳児医療はもっと技術が低かったので、乳児は生後10日まで生きるのも難しかったといいます。(名付けの儀礼が生後7日目なのは、当時そこまで赤ん坊が生き延びることができなかったためだという説があります。) また、無事に乳児期を生き延びても子どもは病気にも弱く、命を落としやすかったので、「7才までは神の内」という言葉があるように、子どもの魂はこの世(人間界)に定着しておらず、神に仕える存在として人々は捉えていました。 (魂が定着していない=死んでしまうのは仕方ない と子どもの死を正当化していた) 夢主編(後)で、夢主が子守りしていた子どもが5才の時に亡くなったと書きましたが、それはいかに当時子どもが生きるのが難しかったかを表現したかったからです。 そう考えると、忍術学園の1年生たちは無事10才まで生きてこられた子たち、という当時にしてみれば数少ない貴重な存在であったと考えられます。 話が脱線しましたが、このように7才までは「人間」ではないので、山の神に差し出すことができない、ということにしました。 8.松助 夢主編に出てくる少年で、夢主より3歳年上の近所の子。 農村では親たちは農作をしなければいけないので、年上の子どもが近所の年下の子のお守(子守り)をするのは当たり前のことでした。 この村での人身御供の該当年齢は「8才〜結婚前」と設定しておりました。 人身御供を行う年(10年に一度)に適齢を迎えていたらもれなく候補として選ばれます。 ゆえに、8才だった松助と15才だった夢主が人身御供に選ばれた、ということになります。 先ほども申しましたように、ある日突然近所の今まで面倒見てくれていたお兄さんやお姉さんが消えてしまった後、子どもたちは親たちに彼らは妖怪であったと教え込まれます。(意図的な記憶改ざんです) 大きくなった子どもたちは今度は自分たちが人身御供を決める番になり、そこで初めて自分たちの記憶が意図的に変えられていたことを知り、妖怪の正体やことの真実を知るのです。 9.学校 夢主は字が読めないし書けないという設定にしました。 今でこそ義務教育がなされ、日本の識字率はほぼ100%に近くなっていますが、それは近代以降に学制というものが制定されたからです。 この時代、夢主のように字が読めない書けないというのはそれほど珍しくなかったのではないかなと私は考えています。 そもそも、忍術学園のような授業体制は近代以降明治時代に外国から入ってきた「学校」スタイルです。 元来日本にあったのは、「寺子屋」や「藩校」といったもので今の「学校」とはちょっと違ったものでした。 寺子屋は、子どもたち各々が自分たちの学習をする、現代で言えば公文式のような(?)感じだったと思われます。が、その寺子屋が多く普及するのは江戸時代。室町時代にもぽつりぽつりとあったらしいですが、仮に室町時代に寺子屋があったとして、数少ない寺子屋に山奥にすむ農民の夢主が行けるはずないと考えられます。 このことから、伊作たちは村の翁に自分たちのことを「寺子屋に通う和郎」と説明しました。 10.禍々しさ 三治郎が夢主のことを伊作に訊ねた時、禍々しい何か、神々しい何かが夢主を覆っていると言いました。 これはなんぞや、とういことですが……。 これは、神に奉納された神に近い存在ゆえの神々しさ(巫女さんとかに近い)と、 村人たちが隠してきた人殺しの歴史、後ろめたさや人柱にされた者の無念などが入り混じったものを禍々しさとして表現しました。 11.『アルジャーノンに花束を』 今作のイメージに反映されたアメリカのSF小説です。 中学生の頃に「これ読め」と友人に渡され数カ月かけてやっと読み終えた本なのですが、この本が今回のイメージとして大きく影響しているのだと思われます。 詳しいことはwiki先生などで調べて頂けたらと思いますが簡単に本の紹介をば。 精神遅滞のチャーリイの視点で書かれたもので、彼は脳手術を受け幼児並の頭脳から驚異的な天才的頭脳を持つことになります。 この過程をチャーリイの思考や日記のように描かれていきます。 私が読んだのは日本語版だったので、最初の精神遅滞で手術を受ける前のチャーリイは幼児並の頭脳ですのでひらがなしか使えません。しかも句読点もほぼなく、時折間違った言葉で書かれており、読んでいてとてもつらかったです。物理的に。 また、物語がゆっくり進むまたは全く進んでいない感覚さえ覚えるのです。 手術を受け、凡人がついていけないレベルの頭脳をもったチャーリイ、従って文章も漢字が多く難しい言葉が連なるようになり、物語の進展のスピードも速くなっていきます。 内容は実際に読んでもらった方が分かるので、ぜひ読んでみてもらいたいなと思います。 「勿忘草の栞」では、このアルジャーノンの本の中の時間が進まない感じを出したくて今回意識してみました。 12.伊作の葛藤 今回の小説は伊作を主人公(視点)にして進んで行きました。 彼はみなさんもご存じのように博愛精神の持ち主で、山賊に追われている夢主を匿い、記憶喪失の夢主をなんとか助けたいと本心から思っていました。 しかし、夢主の記憶が毎日失なわれることや毎日白紙からのスタートは彼にとんでもないストレスを与えたのです。(イメージとしては認知症患者の介護によるストレス。私はそういう経験ないけどそういうイメージで書いています) 自己紹介をしたのに、次の日にもう忘れられたことに対してのショックが根底に存在しています。 このようなストレスが溜まる日々の中、夢主の近くにいるからこその彼女に対する疎ましさが生まれてしまったのです。 他の六年生の忍たまたちは、最初は彼女を警戒していたり、伊作ほど夢主のことを考えていなかったりと、いわゆる「負」からのスタートでした。 そこからみんなで、「記憶を取り戻してやろうぜ!」と奔走するうちに「正」の方へと変わっていきます。 しかし、伊作は当初「夢主を助けてあげたい。医務室から出してあげたい」と彼女のことを親身になって考えていた「正」からのスタートでした。ここからストレスが溜まっていき、伊作や六年生たちが頭を悩ませ奔走しているのに当の夢主本人は何の進展もなく、彼らの苦労など知らずに生活していたため、伊作は心のどこかで彼女を疎ましく思ってしまっていたんです。 夢主が記憶を失くして、六年生たちの苦労を知らないのも仕方のないことなんですが、どうしても伊作は夢主との距離が近すぎてガス抜きを忘れてしまっただけなのです。 彼の葛藤は16話でも書きましたが、ただ夢主に忘れてほしくなかっただけなんです。 伊作を主人公として書いたのも、彼が根っからの博愛主義者で菩薩のように慈悲慈愛の心の持つ、ある種人間を逸脱した存在としての印象をなくしたかったからです。 アニメや他の小説などでは、伊作はとても優しい子として描かれます。それこそ菩薩のように。 しかし、彼は菩薩ではない人間です。きっと人間らしい汚い部分を持っていると思います。 今小説では、彼の人間らしい部分を書きたいがために彼視点で書くことを決めました。私は彼を、一人の人間として成長させてあげたいと思い、彼の汚い部分を描きました。 「伊作はこんな子じゃない!」と思われた方もいると思います。そう思われることは承知の上です。 しかし、彼を貶めたいためにこの小説を書いたわけではないことはご理解いただきたいと思います。 長くなりましたら、こんなかんじで「勿忘草の栞」の解説・裏設定を終わりたいと思います。 また何か思いだしたり、書かなければいけないことがあったら追加していきます。 お待たせしてしまって申し訳ありませんでした。 2014/02/09 2014/02/12 2.5追加 [戻る] |