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 生ぬるい風が申し訳程度にそよぎ、力無くカーテンを揺らす。昨日までみっちりと部活──と言っても私はただのマネージャーだけど──があったためいまいち夏休みに入ったという実感が湧かないまま、片手で足りる程度だが日数が過ぎた。今日は久々に丸一日暇だ。かと言って延々とぐだぐだし続けたいような気分ではない。エアコンをつけて課題でも切り崩していこうかな、と上半身を起こしたが、もう一度思考を巡らせてみた。ああ、いや、やっぱりまず軽く部屋の掃除をして、シャワーを浴びている間に冷房を利かせて、それから課題をしよう。うん、それがいい。と、思い掃除機を取りに行こうとドアノブを回したところで、携帯電話が鳴り出した。さつきちゃんかな、と思いつつベッドの傍から音源を拾い上げ、そして硬直。画面に表示されている名前は『桃井さつき』ではない。
「も、もしもし」
「おはようございます」
 三秒ほど見開いた目で『黒子テツヤ』を見つめてからはっと我に返り通話ボタンを押すと、いつものローテンションな声が少しくぐもって鼓膜を揺らした。異様に耳がくすぐったい。さつきちゃんとの長電話は平気どころか完全リラックス状態で楽しめるのに、相手がテツヤ君となると、途端に緊張してしまう。一言一言どころか、彼の発する一文字一文字がこそばゆくて仕方がない。
「え、と、どうしたの?」
「いえ、もし予定が入っていないなら、の話なんですけど……」
「あ、今日はないよ。うん。なんにも」
「そうですか。なら、よければ今から二人で出掛けませんか?」
 はい。……はい?
 出掛ける? やった。じゃあ、今日もテツヤ君に会える、ってことになる。
 二人で? ……二人? 二人っきり? それってもしかして、もしかしなくても。
 今から? 待って、待って。おしゃれする時間あるかな。服と、髪と、ああ昨日もっと念入りに、丁寧にリンスしておけばよかった。
「……なまえ?」
「はっ、はい!」
「あの、無理に、というわけではないので」
「いいいいえ、行くっ、行きます!」
「そうですか。ありがとうございます」
 十時か、と小さな声が聞こえる。これは多分独り言だろう。どうしよう、嬉しさで咄嗟にオーケーしてしまった。ありがとうはこっちのセリフだ。
「十二時に迎えに行きます。どこかで昼食を食べてから、図書館にでも行きましょうか」
「え」
「? もし行きたい場所があるなら、付き合いますけど」
「うっ、ううん! 課題やりたいし、遠出は、ほら、明日また部活あるし……図書館で、大丈夫です。……えっと……」
 なぜテツヤ君は、二時間弱もくれたのだろうか。さっき言った通り、まさしく今から迎えに行く、なんて言われるのだとばかり思っていたのに。そんな疑問を恐る恐るぶつけると、テツヤ君は電話口の向こうで息を吐くように短く笑った。
「すみません、今からなんて言ってしまって。ややこしかったですね。ほら、よく言うじゃないですか。女性は準備に時間がかかるものだ、って」
 僕のためにおしゃれしてくれるのかと思うと嬉しいですし、と最後に恥ずかしいセリフを付け加え、また短く笑う。テツヤ君。あなた、黄瀬君とは違うベクトルで、女をときめかす名人だと思います。
「二時間で足りますか? 一時にしても、逆に早めてもいいですけど」
「た、たりる! 足ります!」
「じゃあ、十二時に。……すみません。それっぽいこと言いましたけど、具体的にどれくらい時間が掛かるものなのかまでは、分からなくて」
 こういう可愛い部分もあるから本当、彼っていい意味でたちが悪い。



 何だかんだとバタバタ準備をしていたら、あっという間に一時間半近く経っていた。落ち着いてもう三回ほど髪、服、バッグの中身を念入りにチェック。これできっと大丈夫なはずだ、と息を吐き、烏龍茶をコップ一杯分飲み干したところでインターホンが鳴った。ぴったり、ナイスタイミング。
「ちょっと出掛けてくるね」
「黒子君?」
「なんっ……なんで分か、あ、えっと」
「見れば分かるわよ。いってらっしゃい」
「い、いってきます……」
 上機嫌な母親に背を向け、玄関までダッシュ。お母さんは慎ましく礼儀正しいテツヤ君をかなり気に入っているらしい。大反対されるよりはずっとましだけれど、週三ペースでテツヤ君の話を持ちかけられるのは正直恥ずかしい。……なんてことを考えている場合ではない。
 ミュールを履き、最後に靴箱の姿見でもう一度だけ全身を確認。走った所為で少し乱れた髪を撫で付け、深呼吸をしてから、ゆっくりとドアを開く。
「ごめん、お待たせ」
「いえ。こういった短い待ち時間の高揚感は嫌いじゃないので」
 さらりと小説のような言葉を口にするあたり、さすが文学少年といったところか。これでバスケ部でも活躍しているというのだから驚きだ。彼の場合運動神経はあまり良くないけれど、特殊な形でサポート役としてチームの勝利に貢献しているということは、マネージャーの私がよく知っている。



 彼のことだから昼食はいつものマジバかなあ、と思っていたら「お昼どうしましょうか」と聞かれ、これはこれで彼らしいと思わず笑いそうになってしまった。特にあれが食べたいとかここに行ってみたいとかそういうのは無かったため彼に任せると、結局マジバになったけれど。美味しいし安いし、学生の味方である。それなりに混んではいたが、思ったよりは列も長くなく空席もちらほらあり助かった。
 サクサクとほとんど食べ終え、テツヤ君はいつものバニラシェイク、私はコーラを飲みながら緩くお喋りをしていると、ふいにテツヤ君が肩を少しだけ揺らす。
「あ」
 すみません、と突然謝られ一瞬驚いたが、白い指が携帯電話を取り出し納得。テツヤ君はカチ、と音を立てて開いた携帯電話の画面を一瞬確認した後、ボタンを押し耳に当てた。そんなありふれた仕草さえも魅力的なものにしてしまうのだから、テツヤ君って恐ろしい。いや、私の恋愛フィルターが恐ろしいのか。
「もしもし。……はい。……いえ、ボクは遠慮しておきます。デート中なので。……はい。……聞いてどうするんですか、来ないでくださいよ。……これから図書館に行くだけです」
 デート中、なので。その一言がぐるぐると脳内を回る。七周、八周。
「はい、では。……どうかしましたか?」
「え、い、いやあの、何でもっ! えと、誰からだったの?」
 取り繕うように慌てて話題をそらしてしまったが、テツヤ君は携帯電話を閉じながら一度首を傾げただけでそれ以上は気に留める様子もなく、「火神君でした」といつもの声色で告げる。
「暇ならバスケに付き合え、と」
「あ……ごめんね」
「何がですか?」
「だって勉強よりバスケの方が好きでしょ?」
「勉強とバスケを天秤にかけたらそうですけど、今はバスケより君と一緒に居たいです」
 こんなことを真顔で言える男子高校生、この日本に他に居るのだろうか。くすぐったくて、気恥ずかしくて、もう小さな氷しか残っていないであろうカップから伸びるストローに意味もなく口を付ける。
「ていうか、そもそも僕から誘ったんですけど」
「……そうだったね」
「でも、君のそういう、たまに抜けてるところとか、控え目なところとか。すごく好きですよ」
 すみません。そろそろ熱暴走起こしそうなので、もう勘弁してください。


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