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軽音楽と言っても、いざ本気で取り組むとなると、決して軽くなんてないものだ。中学生になって一ヶ月が経った頃、皆より一足遅れて軽音部に入部した私は、今現在壁にぶち当たり中である。幼い頃からピアノに触っていたためキーボードを選んだのだが、いまどきの曲のテンポがいまいち掴めず、先輩に慰められながら涙目で鍵盤を押し鳴らす日々。それなりに自信があったから悔しさも半端ではない。しかしそんな私を尻目に、それこそ軽くベースを弾きこなしている部活仲間が居る。ベース兼ボーカル担当の狩屋マサキ君だ。ベースの実力はもちろん、歌唱力まで相当なもの。更にはギターにドラムまで扱えてしまうものだから、あまりの万能っぷりに顧問の先生も舌を巻いていた。ただ、ピアノだけはどうも苦手らしい。ということは、狩屋君からピアノを習うことは不可能なわけだ。残念で残念でならない。まったくの初心者である影山君のギターの腕を驚異的なスピードで上達させていった手腕があれば、と思っていたのに。こうなると頼る先はひとつしか無い。
私以外に人ひとり居ない廊下に反響するのは小さな足音と、野球部の何を言っているのかよく分からない掛け声。階段を上がると、今度はもっと洗練された、品のある音が聞こえてくる。流れるように透明な響き。切ないような、柔らかいような、そんな滑らかな旋律。まるで奏者本人をそのまま曲にしたかのようだ。扉の前で足を止め、一曲終わるまで静かに耳を澄ませる。中断させてしまうのも申し訳ないし、何より私が聞いていたい。それから数十秒といったところだろうか。優しくピアノの音が止まった。

「入っていいですか、先輩」

扉越しの問い掛けに、奏者は答えない。これは彼なりのイエスの伝え方だ。ノーとは言っていない、好きにしろ。そう言いたいのである。扉を滑らせて中に入ると、先輩は溜め息のなり損ないのような息を吐いた。

「しばらく来なかったな」

ぽつり、と独り言のように小さな声で言うものだから、思わず吹き出しそうになってしまった。不機嫌そうに楽譜の隅をじっと見つめている。

「軽音部に入ったんです」
「…軽音部?」

また更に不機嫌さを色濃く滲ませながら、低い声で反復するのは神童拓人先輩。容姿端麗で成績優秀な神童財閥の跡取り息子さんだ。淡泊でつっけんどんだけど、責任感があって実はとても優しい人である。何故そんなとんでもないお方と知り合えたのかというと実にありがちな話で、入学早々だだっ広い校内を右往左往していたところに声を掛けてもらったのが始まり。既に授業開始のチャイムが鳴り終わっていたというのに音楽室にまで辿り着けず、こんなんならお手洗いに行っているあいだ待っていようかと言ってくれた友人の厚意に甘えていればよかったと半泣きで後悔していたところを助けてくれたのだ。体操服と右肘に貼られた大きな絆創膏からして、彼が授業時間中に廊下に居た理由は明白だった。それから妙に縁がありちょくちょく交流しているうちに、気付けば週に2、3回ほどピアノを聞きに行くような、そんな仲になっていた。しかしここ二週間は部活が忙しくまったく足を運べていなかったのだが、どうやらそれにご立腹らしい。

「実は軽音部で、キーボード、ぜんぜん弾けなくて。よければ教えてもらいたいなあ…なんて」

グランドピアノから一番近い席に腰を下ろしそう言うと、先輩は益々むすっと眉根を寄せてしまった。子供なのか大人なのかいまいちよく分からない反応が、失礼ながら面白い。

「みょうじはもう充分上手いだろう。俺が教えることなんてなにも無い」
「上手いって、まあ、長い間やってはいましたけど…ポップスのテンポに合わないんです」
「それなら」

と、そこで先輩は台詞を止めてしまった。ゆっくりと口を閉じ、瞼を下ろす。言葉を選んでいるような、何か悩んでいるような、難しい顔。しばらくすると、今度はぱちりと目を開き、一瞬だけ迷うような素振りを見せてから、また口を開いた。

「それなら、音楽部に移ればいいだろ」

音楽部。確かに、つい最近まで私もそのつもりだった。先輩のピアノがたくさん聞けて、私もピアノが弾ける。最高じゃないか、と思っていた。悩むまでもない、迷わず音楽部だ、と。しかし、隣席の影山君に誘われ気紛れで軽音部を訪れ試しにキーボードをやらせてもらった時、悔しさと同時に別のものも感じたのだ。

「私、ちょっと嬉しかったんですよ」
「嬉しかった、って…上手く弾けなかったのにか?」
「だからこそです。だって、わくわくしませんか?」

できないこと。それは逆に言えば、頑張ればできるようになることだ。まるで自分の中のどこかがちょっと大人になれるような、成長できるような、そんな気がして。悔しくてたまらないと同時に、高揚した。

「だから、もうちょっとやってみたいんです。ごめんなさい。音楽部には移れません」

そう言うと先輩は私から目を逸らし、一呼吸置いた後天井を仰いだ。彼が今何を思っているのか、それは表情からは読み取れそうにない。

「先輩も何か始めてみたらどうですか?」
「…例えば?」
「そうですね…歌ってみるとか、絵とか、あとはスポーツ…サッカーなんてどうですか?」

言った後に少しおかしくなった。運動神経も良いと聞くけれど、どちらかと言えばインドアで、なにかに対して熱くなるなんて滅多にないような人だから、サッカーをしている様子なんてとても想像できない。なのに、何故か先輩にサッカーをやってほしいと、そう思った。

「歌と絵はともかく、サッカー部は雷門には無いぞ」

小さく笑みを零しながらの先輩のその言葉に違和感を感じたのは、何故だろう。


スローリー・ア・テンポ

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