「ナンパに行こう」
「ごめん意味が分からない」
 帝人の席に我がもの顔で座りくたりと上半身を机の上で伸ばしていた正臣はふいに思い出したかのように呟く。掃除当番である帝人をただ眺めている正臣の突然の意図がよく分からない発言に帝人は箒を片付けながら呆れたように言葉を返した。そもそも今日は自分の買い物に付き合ってくれる予定だったじゃないかと帝人が言えば正臣は得意げに笑う。
「帝人、今日は何月何日だ?」
 帝人がまだ書き換えられていない黒板に書かれた日付を読み上げると正臣はその通り! と声を上げる。慣れたと思っていたけどやっぱり驚くことは驚くな、と帝人は大きな声に驚いて必要以上に働く心臓を宥めるように左胸に手を当てた。
「二月十三日! それで明日は? そう二月十四日バレンタインデー!」
「日本語で喋ってくれる?」
 学校中の浮ついた雰囲気から帝人も明日がバレンタインだということは知っているし、もちろん健全な男子高校生、少しは期待などもしているが正臣のいうナンパとバレンタインがどう結び付くのだろうかと帝人は首を傾げる。過去と同じツッコミとは芸がないぞ帝人! とやけにハイテンションな幼なじみから帝人は溜息を吐くことで逃げた。
「それで、本当に何なの、本気でナンパに行くつもりなら僕帰るよ」
「待て待てここからが本題なんだからよ」
 今までの話は前振りだったのかと怪訝な顔をする帝人を見て、しょうがないなと言ったように微笑んだ正臣は帝人に額を中指で弾かれた。
「まったく、そう急かすなよ」
「もう夕方だよ、急かしたくもなるよ」
「でもまだお前ゴミ捨て行くだろう?」
「行くけど……」
「じゃ道すがら話すか」
 がたりと音を立てて立ち上がると正臣は帝人の手からゴミ袋を奪い廊下に躍り出る。正臣が立ち上がった時の勢いで変な方向を向いた椅子を直すのは帝人の役目だ。
「ちょ、待ってよ!」
 急いで鞄を掴んで帝人も廊下に出るが正臣は視界に入らない。
「早くこいよー、置いてくぞー」
 過去、状況は違うが本当に置いていかれた記憶がある帝人は慌てて正臣の声がした方の階段に向かうがバレンタインとナンパの関係を聞きに行くと思うと、むしろ別に置いていかれてもいいのではないのかという考えが浮かぶ。しかし道すがら話すと言いながら自分を置いて先に行く正臣が正臣らしくてそんな気にはなれないと帝人は階段の下を覗き込んだ。
「ほら、行くぞ」
「うん行くけど、もう少し待つことを覚えようよ」
「俺は待ちに待つ男だぞ」
「そうだね、確かに意外と待つタイプだよね」
「なんかそう普通に返されると意外と寂しいな……」
 階段の踊り場で帝人を待つ正臣は反応がさり気なく冷たいのに慣れすぎたかと呟く。なに変なこと言ってるんだよと苦笑いを浮かべる帝人を見てすぐにまあいいかと正臣は笑顔を浮かべた。
「単純だなぁ」
「いいんだよ、笑ってるほうが良いに決まってる」
「僕も笑ってる人のほうが好きだけど笑顔だけじゃこの世の中やっていけないと思うよ」
「帝人ったら夢がない! その年齢でこれはいけない! だからー、ナンパに行こう」
「どういう繋がりだよ!」
 怒鳴りながらも帝人の声には怒気がない。正臣もそれを分かっていて帝人の首に気軽に手を回す。一通り戯れ合った後帝人はゴミ袋を指差した。
「持つよ、僕の仕事だし」
「これくらい別にいいだろ、俺が勝手に持ったんだから知らんぷりして持たせとけよ、まあ帝人のそういうところは好きだけどな!」
 本人が自信満々に言うように顔の作りは良いのだからそういう紳士なところを全面に出せばモテると思うのに、と帝人が包み隠さず考えたことを言えば首に回る腕の力が少し強くなった。
「うわっ」
「俺は、今も、モテてるんだよ! それにこれ以上モテたら帝人が寂しがるだろー?」
「ねえ、それギャグ?」
「撃沈! 一世一代の告白を流すなんて良いことないぞ帝人!」
「一世一代って……きっともっと素晴らしいことはあると思うよ」
「帝人は親友より女の子を選ぶか……それも仕方ない、女性とは、存在自体が素晴らしい生き物だからな」
「なぜ異性限定……、ていうか本当に何でナンパなの」
「だーかーらー明日がバレンタインだからだよ」
 変化の無い会話だ。正臣はわざと根に触れられないように話しているように思える。何も考えていないだけかもしれないが。
 帝人はゴミ捨て場の前でゴミ袋を持ったまま語る正臣からゴミ袋を奪い取り、投げ入れられているものが多数であろうゴミ袋の山の中に丁寧にゴミ袋を置いた。
「明日がバレンタインだからって、なに? 今日一日で彼女でも作るつもり?」
「まぁできれば良いけどそれは無理だろ、俺の目的はバレンタインで恋という甘酸っぱい想いに敏感になっているであろうお嬢様方を」
「分かった気がするからもう良いよ」
「そうか? ……んで、ついでにコンビニ寄って帝人にチョコを買わせる!」
「なんで? その前に僕の用事は無視なの?」
 ただのいつでもいい買い物だけど、と呟く帝人の肩を正臣はぽんぽんと軽く叩く。校門を出た頃には空は完全にオレンジ色に染まっていた。
「まったく帝人はー、幼なじみに友チョコのひとつもくれないのか? あと買い物は明後日付き合ってやるよ」
「女子高生じゃあるまいし……、しかも明後日って」
「明日はバレンタイン本番だからな! 明後日は俺の買い物にも付き合ってもらう!」
 勝手だなぁと言いながらも帝人が正臣の言葉を受け入れてしまうのは幼なじみと昔のような約束ができたからか。明日は何をしようか、明後日はあれをしよう。その約束の殆どが今日のように正臣の突然の思い付きで色々形を変えたりするのが懐かしい。
「高いチョコは買えないし、ホワイトデーは三倍返しだからね」
「男は十倍返しだろ! 覚悟しとけよ!」
「仕方ないなぁ正臣は」
「こらー、なんだよその子供に呆れるようなほだされるような声は」
「正臣が変わってなくて嬉しいなってこと」
「……変わってないのは帝人だろ」
 一言だけだが少し落ちた声のトーン。その言葉にどれだけの思いがこめられていたのか帝人は知らない。正臣も伝えようと思っていない、無意識にこめられた思いだ。
「あ、それともう遅いからナンパには行かない」
「何だと!? じゃあ代わりにコンビニからデパートのチョコレートにパワーアップだ!」
「まぁいいけど」
「流されるのが一番傷つくんだぞ帝人……」

 空のオレンジに徐々に藍色が交ざり夜がくる。
 帝人は池袋という町に一人でいると得体の知れない恐怖と高揚感と歪みを感じる。それが町の歪みなのか自分のものなのか。
 しかし、隣を歩く幼なじみがいる時だけは、帝人はそれを忘れて真っ直ぐに歩けた。
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