夢を見た。遠い過去の夢だ。
 海原を走る船、仲間たちの声。悲鳴、赤い闇。自分を永遠に縛り続けるものたち。
 変わることのない愛しいものたち。



「テッドさん」
「ん、んーんー、なあに」
「……やっぱりいいです」
 口に突っ込んだ歯ブラシを抜きながら、テッドがひょこりと顔を出す。その姿を見て、ティルは呆れたように言葉を返した。
 元々の髪質からか寝癖が酷い、ということはないが、それなりにぼさぼさの髪に歯ブラシをくわえた姿はとてもではないが格好良いとは言えない。ただ無駄な小動物的愛らしさがある、実際はどう見ても寝起きのだらしない人だが。
「んー」
 ティルの言葉を聞いて、テッドは壁の陰に消えた。すぐに水の音が聞こえてくる。
 テッドの状態を見て、普段の役目を失ったバンダナをティルは腕に巻いて結んだ。緑色、裏地が紫色の解放軍リーダーの目印になった内の一つ。
 じっとそれを見ていると耳の奥、すぐそこで剣のぶつかり合う音が聞こえるようだ。
「ティル君ごめんね、なに?」
 ティルが声に顔を上げると、昨日は頭に巻いていたくすんだ赤の鉢巻を首に巻いてテッドが洗面所から部屋に戻ってくるところだった。引っ張れば解けてしまいそうなほどゆるく巻かれた赤いそれはかなりくたびれていて、随分古そうなものだとティルが言えば、これでも一回新調したんだよとテッドは笑う。
 一回の新調。それがどれだけ前なのかは、聞かないことにした。
「いえ、バンダナを結んでほしかっただけなので、いいです」
「自分で結べないの?」
 意外だね器用そうなのに、と本当に驚いたような声でテッドは言葉を続ける。
「髪とか服とか自分でやると歪むんです、それに」
 それに、昔はやってくれる人がいたから。近くて、遠い過去の話だ。
 変なところで言葉を止めたティルに、テッドは何も言わない。ただ、代わりに右手を前に出した。
「?」
 ティルが首を傾げると、つられたようにテッドも首を傾げる。
「バンダナ、巻くよ?」
「え、あ、あぁ……」
 一晩一緒に泊まらせてもらったし、と差し出されたバンダナを受け取り、テッドはティルの手を引き椅子に座らせた。
 そして自分の皮袋から櫛を取り出すとついでとばかりにティルの髪を梳かしはじめる。
「あの、そこまでしてもらうのは……」
「お礼だよ、会って間もない私を見捨てず拾ってくれた」
 ね? と微笑まれてしまえばティルは何も言えない。

 テッドの言う、一人だと泊まらせてもらえない、は悪い意味ではなく良い意味でらしい。
 かみさまと呼ばれる人に対しての尊敬と畏怖。こんな場所では失礼だという遠慮。でもかみさまを放り出すほうが失礼じゃないかとティルが問えば、私が一時期王宮に世話になってたのが悪いんだと思うとテッドは苦笑いした。
 テッドは完全に王宮を出たつもりだが、実はまだ王宮にはテッドの部屋があり、帰る場所が用意されている。それが宿泊を拒まれる一番の原因ではないかと。
 私はただの人間なのにね、と寂しそうに笑いながら、テッドはそう言った。

「はい、できた」
 久しぶりに綺麗に巻かれたバンダナは、金色の髪の従者を思い出させる。ティルがいつまでも巻いてもらうのは悪いと言ったら、私の楽しみだからいいんですと笑ったとても優しい人。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして、ティル君はまだオベルを観光するの?」
 王宮とか見る? 一般公開されてるよ、と何でもないように言うテッドに、それはどうなんだとティルは問い返す。
 しばらく考えた後、それがオベルだから。とテッドは微笑んだ。
「今日の船に乗ってオベルは出る予定です」
「本当に船目当てだったんだね。友達の気持ち、何か分かった?」
「いや……全然」
 そもそもあの船と親友の間に繋がりがあったのかも分からない。収穫はあの夢くらいだ。
「そっか。ね、見送りしていい?」
「はい」
 残念だな、君ともっと色々話してみたかったと言うテッドに、僕もあなたともっと色々話してみたかったとティルは答える。
 ティルがそう言って少し笑うと、餞別、と今までティルの髪を梳かしていた――黒に金で模様の描かれた櫛を、テッドは差し出した。
「今度会うときまでに、好きな人の髪をいじっても怒られない程度には上手くなるようにおまじない」
 さすがにそこまで不器用じゃないとティルが頬を膨らませた後、二人で顔を見合わせて笑った。

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