ティルはそれを見たとき、あれ? と内心既視感に襲われていた。彼の字を見たのは初めてだが、と思い返すが、「そこ、字を間違えてる」と指摘してから思い出す。全く同じ指摘を親友へとしたことを。

「え?」
「その字はこう……貴方は見るからに赤月、……トラン周辺の生まれではなさそうに見えるから、多少間違っていても何も言われないし、通じるだろうけど」

 そう言いながら、親友と全く同じ間違いを犯している字を訂正してやる。丁寧に、書き順から教えて。見ればなんとなく、その字も含め、他の字も親友のそれにそっくりな気がしてきた。

「ああ……なるほど、書いているときに書きにくいなとは思っていたのだけど、教えてくれた人の癖があるからなのかなって……」
「……教えてくれた人」
「うん。でも赤月の字はね、今まで二人に教えてもらったんだ、そこが混ざってしまったのかな」

 ティルは、流れで旅を共にすることになったその連れに、確信に触れることを聞いたことがない。まだ右手に宿る紋章のことを恐れ、親友を喪ったことを嘆いているからだ。
 親友と知り合いであることは分かっている。それも、そこそこ深い付き合いの。だが互いに薄氷の上を歩いているでもないが、彼との旅はそのような緊張が常にあるものだった。
 ティルにはもう二度と語りかけてくれない声で「坊っちゃん」と呼んでくる彼を思い出すようなところもあれば、ぴりぴりとした殺気を纏うこともある。隠居した老人のような落ち着きもあれば、今は子供のように字を練習している。

「一人はね、赤月の出身だったんだ。それで結構長い間交流があって、会う度に教えてもらったから自信があったんだけど……」
「けど?」
「……、……挨拶は完璧だからって見栄を張ってた。……違うな、あまり、そこに踏み込んでほしくなかった、のかも?」
「そんな不思議そうな顔をして僕を見られても困るよ」

 こてん、と首を傾げる姿は実に見目相応。だが見た目通りの年齢であるはずがないのは、親友のことでよく知っているつもりだ。

「……昔から私はこんな感じだったから、きっと私に一通りの挨拶を教えてくれた人も困っただろうな」
「……そう」

 こういう時に、他人には分からないぴりっとした感覚が二人の間に走る。駆け引きに似ているような、または警告、もしくは牽制だろうか。
 現在の旅の連れに、ティルは群島諸国で出会った。親友が生前、愛しい過去をなぞるように語った物語の地。そこで、ただ全てを忘れぬようにと愚直に生きていた男。聞けば一度、きっかけがあって北上するように故郷を離れたが、寒い土地が合わずに逃げ帰ってきたと言う。
 群島諸国連合に属する島は大半が大きく外へと港を開き、積極的に交易を行っていることから言葉にはそれほど困らないだろうと親友は語っていた。それは確かに事実であったが、彼以上に訛りもなく赤月帝国のあたりの言葉を話す人も珍しい土地である。
 覚悟はしていたつもりだったから、それでも何十年と耐えてから帰ったんだよ。と彼は言った。変わり果て、しかし変わらぬ故郷。旅のきっかけとなったという彼の親友を彼が直接見送ったのかどうか、ティルは聞かない。傷は抉らず、舐め合いもしない。しかしその態度こそが傷の舐め合いである自覚はあった。
 言葉にしてしまえば、理解は深まるだろう。だが分かり合えぬこともあるはずだ。分かり合えぬと理解し、離れるには惜しい相手だとティルは思っている。推測だが、旅の連れラズロもそう思っているはずだ。
 だからこそ、ラズロを初めて見たときにソウルイーターが歓喜に震えたことを隠し、見て見ぬふりをしている。またラズロも、それを感じただろうに追求してこない。ティルとしても、その時に喜んだのがソウルイーターだったのか、はたまたこの紋章の中で今もティルに手を貸し助けてくれている親友の残滓だったのか分からない。紋章も昔の知り合いにあって動揺したりするのだろうか。

「これでいいかな?」
「……ん、完璧」

 正された字は、テッドとティルの字を混ぜたような形をしていた。当たり前だが、テッドがティルに指摘され、正された字とは感じ方が異なる。つい口を出してしまったが、ラズロの字の雰囲気が変わってしまったことを惜しいなと思った。

 ラズロは群島諸国を訪れたティルについていく形で故郷を離れ、再び北上するように旅に出た。曰く、約束したのなら叶えてもらわないと。今日まで死なずに頑張って生きていたのだから、百五十年くらい付き合ってくれてもバチは当たらないだろう。
 しかしハルモニアに近づくつもりはなく、ハイランドの側に争いの気配を感じたがゆえに、今はトラン共和国に二人でひっそりと身を置いている。現在は何をするでもなく、勉学や狩りに励んで日々を過ごしていた。あまりに平和すぎて何か勘違いをしてしまいそうな時の流れの中、現実へと適度に引き戻されるラズロとの生活は悪いものではない。何より家事の知識が壊滅的なティルとは違い、ラズロは城の従者をやっていたと言われた方が納得するほどその手の知識を有し、技術に長けていた。助かった、と思うのは仕方がないことであると思う。その代わりと言ってはなんだが、ティルが持つ知識をラズロに分け与えようとしているわけである。

「……これは言わないつもりだったけれど、私はね、彼はずっと君を探していたんだと思うんだ。私を通して誰かを見ているようだったから」

 手本を真似て次の文章へと取り掛かりながら、唐突に。唄うようにラズロは言った。

「私も、君に会えて嬉しいと思う」

 言葉のつながりがよく分からないな。と思いながらも、ティルは頷いた。
 親友がラズロと交わした約束を、ティルは正直に言えば何も知らない。だが「待っていた」のだと言ったラズロに、ティルとして思うところがなかったとは言わない。迷惑だとかそんな話ではなく、ある種の救いを得たと言うべきか。
 ただ私は生きたいのだとラズロは言った。忘れないために。
 人はこうしてつながり、未来や希望を紡ぎ、時に手を取り合い生きていくのだと、様々なものを失い、しかしそこで得たものをふいに思い出した。それは一人で城を離れたときから、薄れてしまっていたものだ。ティルが親友から託されたものを守り生きていくために、手放してはいけないものだったろうに。
 まだ右手の紋章との付き合い方は定まらない。この先、ラズロを喰うことすらあるかもしれない。
 それでもあと少し、三百年とは言わずとも。
 歩み続け、生き続ければ、何かを得られる、ラズロのように。どこかそんな予感がしていた。
 だからティルは笑って言った。ラズロもまたその言葉に笑みを浮かべた。何も知らない。でも今はそれだけでよかった。

「僕も、貴方と旅が出来てよかった」


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