駄々をこねるように膝に泣きつくラズロの頭を撫でながら、今日も良い天気だなとスノウは窓の外を眺めた。
 ここ数年ですっかり身体が動かなくなって、しかし仲間の中では長生きをしている方だと思う。スノウはあの大型船では新参も良いところだったため深い関わりはなかったが、あの戦争が終わってすぐに命を奪われた仲間もいた。それを悲しく思った。その時のスノウはこの世に絶対に正しいことなどないのだと理解していたから、仲間を殺した奴が悪いのだと責めることが出来なかったことも、また悲しく思った。

 ラズリルに帰ることを許され、一から自分を変えようと努力してきたつもりだ。そんな自分のことを愛し、一人になったスノウの家族となってくれた女性もいた。子供と孫にも恵まれた。
 ラズロは戦争後、新たな働き口としたのか、もしくは何か他に事情があったのか。十年には届かない時間その身をオベル王国に置いていたが、ある日突然ラズリルへと帰ってきた。そうして家と仕事をあっという間に見つけ、まるで本当の親友のようにスノウと日々を過ごして、今日まで生きてきた。夢のような日々だった。

「ラズロ、こればかりは仕方がないんだよ。僕だって人間なんだから」
「スノウはしぶとくて、いくら死にそうな状況に追い込まれたって死んだりしなかったじゃないか」

 さすがに君に首を落とされていたら死んでいたよ。とは言わない。長い付き合いの中でそのように言い返して喧嘩も出来るようになったが、今はそうするべきではない。ラズロは仲間の死に敏感になっている。オベル王国にも、突然ラズリルへと帰ってきた日から顔を出していない。国王の死が伝えられたその時にかなり悩んだように見えたが、結局はスノウにすがり付いて、スノウに八つ当たりをしただけだ。
 スノウはラズロの代わりに葬儀へと赴き、その死を悲しみ悼んだ。後悔するくらいなら君がちゃんと行けばよかったのにと静かに泣く友人を今のように宥めたが、ラズロがこうなった理由が分からないわけではなかった。
 ラズロはあの日から何も変わらない。仲間たちが老衰で息を引き取っても、ラズロだけがずっとあの戦争の日々のままだ。死から逃れた彼を、今は不老が蝕んでいた。
 どうやらラズロは、自分を無視して仲間を襲うようになった死が怖くてオベル王国から逃げ出してきたようであった。自分によくしてくれる彼らがいつかは死ぬのだと、置いていくはずだった自分が置いていかれる側になったと、戦後暫くして思い至ってしまったらしい。遠慮も意地もなくなったスノウに言わせれば「僕はずっと怖かったよ」の一言である。数年もそんな当たり前のことに気づかなかったなんて。と。
 ラズロは戦後、酷い言い方ではあるが随分と人間らしくなった。スノウに対して怒って泣くようになった。スノウ以外に我儘に振る舞うことには抵抗感があるのか、外では大人しくしているが、穏やかに笑うようになった。
 いつか自分もラズロを置いていくのだろうと、スノウはずっと考えていた。最近まで目をそらしていたのはラズロの方だ。

「ラズロ、いっそ旅にでも出たらどうかな。そうすれば、君の中で僕は一生、生きていられる。健康な身体で、たまには喧嘩をして、君が泣いていたらこうして慰めて、若いままの姿で」

 スノウは、ラズロが旅に、群島諸国以外の土地に興味があることを知っていた。死んでくれるなとラズロが精神を崩す度に様々な言葉を掛けてきたが、旅に関してラズロは他の意見よりも話を聞いた。

「でもそうして旅に出てここに帰ってきたとき、私の知っているものが何もなくなってしまっていたらと思うと耐えられない。だったらずっとここに居る。ここに居て、変わっていく姿を見ている。そうすれば、ここはずっと、私の知るラズリルのままだ」

 だからスノウは何度かその道を口にしたのだが、返事はいつもこれだった。群島解放戦争の際にガイエン公国から見捨てられる形で離れ、ラズリルもすっかり変わってしまったところがある。外観も、在り方も。イルヤが驚くべき速度で復興した頃はまだラズロは喜んでいた、心から。その変化をラズロが喜ばなくなったのはいつからか。否、常に自分と仲間が守った群島諸国の発展を喜んではいるが、ラズロとしては複雑な気持ちがあるらしい。

「大丈夫、約束するよ。絶対ラズロの知らないラズリルになんてならない。僕がそうはさせないさ」

 もうただの、ラズリルに住む一人の人間でしかないだろう。と言われたらその通り。スノウには高い権力もなければ、莫大な貯金があるわけでもない。
 いっそ僕が、健康な内にラズロを連れて旅に出るべきだったのだとスノウは思う。いつだって自分は空回りして後手に回ってばかりで、こういうところは何年生きても変わらなかったと反省してしまう。今となっては一日の大半をベッドの上で過ごし、ラズロを死の恐怖の外へと連れ出してくれる誰かを待っている。
 たとえば、そう。ラズロが一度だけ恨みがましげに口にした、あの金色の髪の少年が、あの日のままの姿でやって来てくれたなら。もう長くない人生の中、それ以上に嬉しいことはないだろう。
 ラズロはきっと、自分が死んだとき泣けもしないのだと思う。子や孫に遠慮して、何で死んだんだと遺体に八つ当たりも出来ない。そういう性格だ。彼の中に降り積もる悲しみを少しでも少なくしてやりたいと思うのに、その術はない。

「……別れ際に、フレアが言ったんだ。私たちの墓でも構わない。だからまた必ず会いに来て、と」
「そっか」
「生きてる内に、話すべきだと思う。会うべきだと思う。このまま永遠に別れてしまったら、きっと私は彼女の死を受け入れられずに、また何年も会いに行かずに過ごしてしまう。その間に、墓が、道が、分からなくなってしまったらどうしよう。私が逃げ続けている間に、何十年、何百年と時が経っていて、墓がなくなったりしていたらどうしよう。最近そんなことばかり考える」
「行けば良いじゃないか、君は健康なんだから。もっと早く言ってくれたら僕もついていけたけど、今は少し難しいかな」
「そうしている内にオベルの人たちが私のことを忘れて、墓参りもさせてもらえなくなったらどうしようとか、これはスノウに対してもなんだよ、他人事じゃないんだ。随分と君に負担を掛けてる、家族との時間を奪っている。君が死んだあと、私を知る君の家族がいなくなったら、ぼくは、」
「君だって僕の家族だよ、ラズロ」

 泣いている。と思ったが、ラズロの頬は濡れてはいなかった。僕が死んだら泣くだろうか。泣くだろうな。とスノウは思う。一人でひっそりと、昼は僕の家族を慰めて。さすがにもう、それを疑ったりはしない。好きにしろとは言ったが、自分の首を切ったらラズロは悲しみ後悔するのだろうなと疑っていなかったときのように。

「重ねて言うけれど、大丈夫だよ。ラズリルも僕もラズロのことを忘れない。そして君が知らないラズリルにもならない」
「根拠のないことを自信満々に言わないでくれ」

 と、言われても。スノウは困った。こればかりは根拠があるのだ。とても傲慢で、思い上がった根拠が。
 だから皺だらけになった手で、ラズロの昔から変わらない日に焼けた髪を撫でながら、スノウはラズロの言う通り、自信満々に言葉を重ねた。少しでも言葉が震えれば、ラズロは信じてくれないだろうし、悲しみ、寂しく思うと思ったから。笑ってもらわねば意味がないのだ。もしくは、何だそれは、ふざけているのか。と怒られたって良い。

「根拠はあるよ。ラズロがラズリルに帰ってきて、僕のことを思い出さないことなんて絶対にないからね」

 僕だってそうだ。君のことを絶対に忘れない。

 スノウは、未だにラズロの感情を読み間違える。その言葉を聞いて、ラズロはついに本気で泣き出してしまった。


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