お願いだ、お願いだよ。僕に宿ったって良い、僕はあの時、貴方から逃げた身だ。
 だから、お願いだからラズロは連れていかないで

 誰よりも真っ先に、甲板へと崩れ落ちた身体へと駆け寄った青年はそう叫んだ。誰かが止める間もなく、軍主の身体を抱え上げて、その肉体のあまりの冷たさを嘆いた。

「僕は、僕自身が死ぬのが怖かった。だから逃げた。でもラズロは違う、ラズロは僕たちを死ぬ理由にした! そうやって納得したフリをした!! でもラズロだけが、その恐怖から逃れられたなんて、そんなことあるはずがないんだ!!!」

 自分の年齢も考えずにわんわんと泣き叫ぶ青年を大人しくするのは骨が折れた。またその冷たい身体から、泣いているからなのか体温の上がったあたたかな身体を引き剥がすのも。だがある意味で、それは救いであった。誰もが軍主を遠巻きに見て、どうしようかという空気があたりに漂ったなら、柄にもなく青年のように泣き出しそうな気分だったからだ。
 愚直な動きだった。後ろめたいところなど何もない、献身的とまで言える。家族を心配するような、最後の最後に自分達を守るために倒れた軍主に駆け寄る姿は。

 紋章砲と罰の紋章がぶつかり合った衝撃波の影響で、大型船はどこへも行けなくなってしまっていた。何せ無風だ。波すらない。巨大な船が動くには何もかもが足りなかった。
 これまでとは異なり、心臓が止まっていることが確認された軍主をどうするのか。帰らなかった軍師抜きで話し合いが行われた。
 そうして軍主の処遇が決まった時、青年は涙声で言った。僕もその小舟に乗る。と。

「ラズロはきっとそれを許さない」
「分かってる。分かっているよ。僕は弱い。もうラズリルへも帰れない。ここでラズロを見送って、それで、僕はどこへ帰れるのか、今の僕には分からないけれど、ここでラズロを見捨てても、これからは謙虚に、平和に生きていけるかもしれないと思ったりするけれど、」
「なら」
「でも、ここで彼を一人で流したら、僕は一生、ラズロに許されないと思う」

 それは、軍主としての少年を思う言葉ではなかった。彼が幼年期から接してきた、ラズロという一人の少年を想い、これまでの行いを彼に償うための言葉であった。
 ふと、その言葉に思い出すことがあった。まだラズロの心臓が止まる前に、ラズロがこぼした弱音のような言葉だ。

 俺は上手く子供っぽさを隠してるだけなんだ。いまだにこの船のリーダーは、俺はリノやキカだと思ってる。でも言わない。みんな怒ると思うから。
 みんなを守って死んだらみんな泣いてくれるかなとか、俺のことを忘れないでくれるかなとか、考えたりもする。
 でも、その時は泣いてくれても、忘れちゃうだろうなと思う。居なくなった、それほど心を寄せていない奴のことなんて。
 スノウなら、絶対に忘れない、あの臆病者はぼくが死んだら忘れられないだろうと、そう思うのに。

 結果的に、青年は船上へと留まることになった。彼がラズロにしたように、彼が裏切ったに等しい同期たちが、彼を止めた。
 ここでスノウを行かせたら、私たちが、俺たちが、ラズロに恨まれてしまうと。

 軍主を乗せた小舟は、人魚たちの手により船から離れていく。彼の少なすぎる私物と、もしもその止まった心臓が再び動き始め目覚めた時に、彼が生き延びられるかもしれない荷物を乗せて。
 恐ろしいほどに右手に宿った紋章は静かであったが、それが軍主の命を掠め取って満足しているからなのかは分からない。それでも、彼は死んだのだと理解していた、心臓が再び動き始めるなどあり得ないと分かっている。
 なのにテッドは、それをラズロに持たせてやった。あんな書き損じた書類に、不格好な字で。様々な言語で自分が書き記したそれを、後生大事にラズロが私物の中に混ぜていたから。

「……またな」

 いつかまた会える。右手の紋章がその命を掠め取っているのであれば、その形が常人には理解できないものであったとしても、必ず。
 ラズロもまたテッドと共に旅をして、そして死神の鎌となり、テッドの敵も、テッドの愛した者も刈るのだろう。
 青いばかりの鮮烈な光。それが共にあると思えば、まだ立っていられた。離れていく小舟を見て、子供のように涙をこぼしている青年のように崩れ落ちずに、見送ることが出来た。
 背中を押してもらった、ならば歩き、進まなければならない。たとえ背を押したその手が、もう世界のどこを探しても見つからなくても。


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