テッド、そこ、字を間違えてる。ティルの好奇心に付き合って文字を綴っていたテッドに、そう指摘した日をティルは思い出す。己がまだ見ぬ遠方の土地の話をテッドにねだり、父の書庫で本を広げながら羊皮紙に羽ペンを走らせた時の話だ。
 正確な歳は分からぬが、テッドはその見目に合わない豊富な知識を有していた。本人はそれを見せびらかすようなことはなかったが、ティルを助けるため、もしくはティルの甘えに度々その知識を披露してくれる。その日も、ティルが遠くにある海の話をテッドにねだった結果、群島の地図と海を守るという海神の物語が描かれた本を引っ張り出して、海の地方の言葉を教えてくれた。

「えっ、なんか違うか?」
「うん、そこはこうじゃなくて、こう……」

 ティルがテッドの字と並べて正しく書き順、作法を守って字を書けば、それは確かに一部分が異なっていた。手癖だろうか、元は正しく覚えていたのに、書いている内に間違えて記憶してしまったのかもしれない。それはティルには馴染みの深い、赤月帝国の字だ。
 ティルは一通りの作法をマクドール家に招かれた教師から学んでいるが、残念なことにテッドが書く南の方の字は分からない。しかしテッドはどうやらその経歴から多くの言語を挨拶程度は扱えるらしいので、どこかの国の言葉、字と混ざってしまった可能性もある。
 ティルがそう考え純粋な気持ちで間違いを指摘し、真っ直ぐな瞳でテッドを見ると、テッドは苦虫を噛み潰したような妙な表情を顔に浮かべていた。ティルに教える側であったのに、間違いを指摘されて悔しい――というわけでもないらしい。

「どうしたの?」
「ああ……いや……ちょっと記憶が定かじゃなくて……」

 記憶? ティルが問えば、テッドは小さく唸り声のようなものを出した。眉を下げて、自分の記憶を探っているらしい。

「この字を覚えたときのこと?」
「あー、そっちはいつだったか本当に覚えてない」

 ではなんの記憶を探っているというのだ。群島諸国連合に守られた海域、島の名前を指先でなぞる。空よりも川よりも、湖よりも深い青で一面満たされた景色をティルは空想した。
 赤月帝国と群島は、実のところ移動距離を考えなければ近所である。かつては間にクールークと呼ばれる皇国があったが、いまではその土地の大半は赤月帝国に吸収され、赤月と群島は一部国境が接している。群島の一部の島は観光地として栄え、赤月の方にも噂は流れてくる。

「……ダメだ、思い出せない。……前にこの国の字を教えてやった奴がいるんだけどさ、教えてたら……悪いってことで」
「ああ、間違えて教えたかもしれないってことか。……群島の字に間違いはないの?」
「それはティルが実際に群島に行って確かめる、ってことで」

 にひひ。と年相応に悪戯小僧のようなでテッドが笑う。しかし、群島の地図に視線を落とし、ふとその瞳が何か好ましいものを見たときのように優しげに細められた。遠い昔を懐かしむような、父が母の話をするときによく見せた表情に似ていた。
 テッドはティルの書いた字を真似て、間違えて覚えていた字を書き直す。今から百五十年ほど前、今に伝わる群島解放戦争には海神の加護があったとされている。海を駆ける巨大船と海神伝説。少し不格好な字がその本の題名を綴った。


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