総士と二人、一騎は海沿いの道を歩く。幼い頃にはよく歩いた道だが、年を重ねるほどに用がなければ歩くことのない道になってしまった。自宅も、喫茶楽園も通り過ぎて、この先には鈴村神社と灯台くらいしか訪れるような場所はない。
 向島を左手に、一騎は海風に揺れる総士の髪を見る。綺麗な榛色が揺れる度に見える背は、随分としっかりした大人のそれに近くなった。短く肩上で髪が切り揃えられていた頃の面影はまだ残っているが、やがて薄れて失われてしまうのかもしれない。
 思えば、一騎は総士の背中をこんな風に穏やかな気持ちで、ゆっくりと眺めたことがない。断絶の日々の中で横目に窺い見たことは何度かあったが、幼い頃はそれこそ総士はいつも一騎のとなりか少し後ろを走っていた。見る機会がなかったのだ。
 新鮮だなあ。と一騎がじっとその背中を見つめていれば、総士は居心地の悪そうな声をあげる。どうせならとなりに来たらどうだ。と言われ、逆らう理由もなかった一騎はおとなしく総士の言葉に従った。一騎が少し早めた歩調と、総士のゆるめられた足運び。やがて同じ速度で二人並び歩くのがくすぐったい。総士の左側を陣取って、ここは俺の場所。と誰に言うでもなく、一騎は心の中で自慢した。

 研究でこもりがちな総士を連れ出すための口実。ということになってはいるが、それは一騎に適度で緩やかな運動をさせるための約束事だった。一騎の体力は日を重ねれば重ねるほど、本人も気付かぬ内にひっそりと失われている。
 昔は当たり前にできていたことができなくなる。あまつさえ、それで体調を崩したこともあった。

 ――もう昔とは違うのよ、一騎。

 一騎と、自分に言い聞かせるように。少しの悔しさを滲ませて一騎に背負われた咲良の言葉は、他の誰のものよりも、すとんと一騎の心の中に落ちてきた。そうか、なら、仕方ないな。と。
 普段は剣司がいるから大丈夫なんだから。一騎と同じように一度は暗い世界を覗き見て、人に頼り甘えることを受け入れた彼女は、一騎が知る中では誰よりも強がりで強く在りたがっていた少女だった。
 昔、背負って学校まで連れていった翔子のことを思い出す。一騎がとある日に背に重みを受けた咲良は、精神面はともかく肉体面ではいまとなってはあの翔子のように弱々しい。
しかし、もはやいまの自分は咲良を背負って全力では走れないのだろう。一騎は、そう悟ってしまった。

 定期的な散歩の提案は、総士が一騎に持ちかけた話だ。僕のため。という建前まで用意されていたら、もう一騎は総士の誘いを喜んで受けるしかない。総士を独り占めできる、という感情が思考を埋めたことには、気づかなかった振りをして。
 夏の日差しが暑く眩しい。となりを歩く総士とは、肩が触れ合うような距離。暑いから離れてくれと言われてもおかしくないが、一騎は離れる気にはなれず、また総士が何も言わないのをいいことにその距離を保ち続けた。たまに肩を軽くぶつけ合いながら、やがて、今日の目的地が見えてくる。

 長い石造りの階段。昔は一騎も総士も、よくここを駆け上がった。今でも島の子供たちの良い遊び場なのかは分からないが、一騎にとっても総士にとっても思い出深い場所である。
 ――鈴村神社。盆の時期は、夏祭りの舞台になる。後輩に大部分を引き継いだが、今年も生徒会メンバーは張り切って様々なことを計画中だ。一騎や総士は、今年が学生生活最後の夏祭りになる。
 青い空を見上げ、いまは目も見えるのだから、また浴衣を着るのも良いかもしれないと一騎は思った。総士も剣司も巻き込んで、想像しただけで少し楽しくなる。

「一人で楽しそうだが、上まで上がれるか?」
「中学の頃の浴衣、まだ着られるかなと思って。大丈夫、昔はよく上がっただろ」
「僕はいまこの階段を駆け上がれと言われたら少し嫌になるぞ」

 年寄りか。と総士に言いながら、しかし自分もこの石段を駆け上がるだけの体力はないだろうな。と、一騎は頭の片隅で冷静に考えていた。先に石段へと足をかけた総士に続いて、一騎も石段を上がっていく。ざわざわと揺れては葉を騒がせる木々の音に交じって、蝉の鳴く声が聞こえてくる。石段の端を通れば木の葉で太陽の光は遮られ、木漏れ日が肌に落ちる。
 夏だなあ。と漠然とした思考で考えながら、蝉って土から出てくると一週間とかで死ぬんだったか。と一騎はうろ覚えの知識をぼんやりと思い出した。

「総士、蝉の寿命ってどれくらいだっけ」
「蝉? ……種類にもよるが、蝉は幼虫の頃も含めれば昆虫の中でも長寿の部類だ。十七年を土の中で過ごすようなものもいるらしい」
「大人になってからは? 一週間とかで死ぬんじゃないのか」
「それは成虫の飼育が困難であるがゆえの俗説、という話だな。野外であれば一月程は生きるとされている」
「十七年、土の中にいても、外に出たら生きても一ヶ月なのか」

 一週間ではなくとも、とても短い。しかし、似たようなものかと思った。ファフナーに乗る前の自分と、ファフナーに乗ったあとの自分。生存限界は、どう足掻こうと何も知らずにいた日々の時間には届かない。一騎は、何故自分がまだ生きているのか純粋に不思議だった。死ぬ機会だけは、山ほど用意されていたというのに。

「……一騎? ゆっくりでいい。無理そうなら下りよう」
「総士、蝉……もだけど、昆虫とか、こうして島に在るものは全部、アーカディアンプロジェクト、の、一環なのか」
「僕は計画を企画実行した当事者ではないので断言はできないが、おそらくは。島で実際に見ることはないかもしれない、しかし遺伝子や研究データが保存されている生物もいるだろう」

 総士の説明はいまの一騎には分かりやすく、淀みがない。一騎に対して、もはや様々な事柄を隠す必要がなくなったからだ。もう不器用な優しさを上手く受け取れずに、一騎が総士を傷つけることはない。
 遺伝子。と細い声で呟きながら、一騎は自身の息が乱れてきている体調の変化を自覚していた。長いといっても幼少の頃は息を乱すことなく駆け上がれた石段が、いまはとても長く険しい道に感じる。ほぼ同時に石段を上り始めた総士とは、数段の距離の差ができてしまった。総士は、心配そうに数段上から一騎を見下ろす。無理をするな。と言われても、無理をしたくもなる己の貧弱さに、一騎は情けのない気分になった。

「……もう少しで着く。一緒にいこう、一騎」

 一騎が言うことを聞かないことは、きっと総士が一番よく理解している。一騎を休ませる代わりに、総士は幼い口調で言葉を紡ぎ、一騎へと手を差し出した。
 差し出された総士の指に、ニーベルングの指環の痕がなくて、一騎は安心した。綺麗な総士の手。
総士は、戦いを知らないわけではない。知らないどころか人の手のひらの中で砕けたりもしておいて、安心もなにもないだろうと思う。しかし、一騎は総士の手に指環の痕がなくて、本当によかったと思ったのだ。
 同時に、差し出された手を取ろうと伸ばした自分の手の指、十本全てを戒める指環の痕に心が冷えていく。――生きても、あと数年。穢れを寄せ付けないような白を有する、一騎自身とも言える相棒に、命を捧げた証。島を、総士を守るために。その選択に後悔はない。しかし、いまはどうにも、総士の綺麗な手を取ることを躊躇った。

「一騎?」

 幼い頃と比べれば、低くなった声。見上げれば、木漏れ日に照らされ、きらきらと榛色の髪がやわらかく輝いていた。逆光の中で、それでもはっきりと捉えられる瞳は、いつだってまっすぐであろうとしている。
 完璧ではない。総士も人間で、一騎と同じ生き物で、悩んで、苦しんで、痛みを抱えて生きている。しかし、この上なくうつくしい存在。というのは、皆城総士以外には考えられなかった。ずっと昔から、いまに至るまで。

「総士が好きだ」

 ぐっ、と腹の底から感情がせり上がってくる。
数段の差を自ら歩み寄り、躊躇っていた一騎の手を取る、見目よりも力強い総士の手のひらの熱に、一騎は耐えきれずに感情を吐露する。
 驚いたように丸くなる青みがかった灰色の瞳も、何かを答えようとして結局は何も落とすことができない唇も、全てが愛しかった。ずっと気付かない振りをしていたというのに、自分すら騙して、穏やかに、あと数年。そっと、親友として、近くはあるが、となりではない。そんな場所で、神に等しい存在に、寄り添えたらと思っていたのに。

「どうしよう総士、すきなんだ」

 ここにきて欲が出た。平和に身を置いて、総士の未来と幸福を祈って、朽ちていくだけ。――そんなのは嫌だった。総士の指を締め付ける指環がなくて、どうしようもなく安心した。総士は、誰のものでもない。誰のものにもならない。
 ――総士は、誰も選ばない。安堵と絶望に満たされた一騎の吐き出した声は、動揺でひどく震えていた。
 親友でありたかった。最後まで、穏やかに。総士を困らせたくなんてないのに、同時に怒られるくらい困らせてみたい。一騎は、総士に対して不器用だなんだと言うけれど、自分もそれなりに口下手なことを忘れていた。続くべき言葉がまったく出てこない。

 ぎゅっと握り締められた手が熱くて痛い。強く引き寄せられ、勢いよく飛び込んだ一騎を受け止めた体は、もう大人のものだ。
 指環の痕が消えない指。もはや駆け上がれない石段、乱れてしまった呼吸。気付いてしまった、恋心。

 無邪気に一番大好きな親友の名前を呼んで、誰よりも速く駆けていた頃にはもう戻れない。後悔はないというのに、確かに自分を包む熱を想うと、抱えた事実が妙に悲しかった。
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