一騎が花屋でアルバイトを始めた頃に、その人物は常連と呼ばれる客になった。榛色の髪はいつもさらさらと揺れていて、瞳は青みがかった灰色。たまに藤色に見えて、伏し目がちに花を選ぶ姿はとてもきれいだ。
 週に一度来るか来ないか。常連の彼の名前を一騎は知らない。知っているのは、病気で長く入院している妹の見舞いのために花を買いに来ているということだけ。どのような花が良いだろうか、と自分などよりよほど頭が良さそうな顔で尋ねられ、当時の一騎は随分と慌てたものだ。
 根付くものはだめ。血を連想させる赤い花もだめ。もちろん葬式のイメージが強い花もだめだ。それから、香りが強い花もだめ。頭の中から知識を引っ張り出し、一騎は毎週のように先週とは異なる花を一輪選んでは、大切に包んで彼に渡した。
 最近の病院で見舞いに花は推奨されないどころか、持ち込み禁止のところもある。しかし彼は妹に外を感じさせるものを見せてやりたいのだと病院と交渉し、その日の内に持ち帰ることを条件に持ち込みが許可されているらしい。なるほど、だから一輪だけなのか。と、話を聞いた時、一騎は内心納得した。きれいな彼が綺麗な花を一輪手土産に。とても似合いだなと思いながら。
 彼と一騎の付き合いは数年に亘る。次第に距離も近くなり、花を選ぶ際に些細な会話を交わすようにもなった。例えば、一騎が花屋でアルバイトをしている理由。他にアルバイトをしようとは思わないのか、飲食店とか。そう問われた時、一騎はたしか「生命の循環、みたいなのが感じられるのが良い。飲食店も、俺が作ったものが誰かを生かすんだと思うと良いかも」と答えた。一騎は幼馴染みの両親が経営する喫茶店を長期間手伝った過去があるので、本心からの言葉だ。
 彼は少し驚いた表情を浮かべて、「本質は変わっていないんだな」と囁いた。彼は、たまに一騎が理解できないことを言う。ふっと大人びた顔をするのに、子供っぽくすねてみたり。まるで幼い頃からの友人のように、ずっと昔から真壁一騎という人間を自分は理解していると言いたげな顔で。
 事実、彼の語る推測などと呼ばれるものは、外れることもあったが大体は当たっていた。「意外と食にはこだわるタイプだろう」と言われたときなんて、「意外とってなんだよ」と答えながらも心はひどくざわついた。
 ぶっきらぼうな物言いのせいか大雑把という括りに分類されることが多い一騎は、食に関しても野菜ぶつ切りの男料理。と思われがちで。しかし、確かに食べるなら美味しいものを食べたいし、作るならちゃんとしたものを作りたいグルメ派だ。彼との接触は花屋でのみ。それまで食事に関する話もしたことがなかったというのに、おそろしい観察眼である。
 そんな風に自分の方向性のようなものを言い当てられること数度。不思議と、彼に対して、一騎は気味の悪さや恐怖心を抱いてはいなかった。彼に悪意がないことを直感的に理解していたのもあるが、何より彼がうつくしい生き物であったことが大きな理由だ。一騎は、彼以上にきれいだと思う存在に出会ったことがない。
 それはもはや魂に刻まれているのだと言われても納得できるような、一騎自身にも上手く説明できない感覚だ。彼になら何をされても、何を言われても許せてしまう気がする。そういうものなのだ。としか言えない。一目惚れ、というには少し違ったけれど、妙な執着があることは間違いない。
 何よりもうつくしい存在と、綺麗な花。一騎は一輪の花を大切そうに抱えた彼を見ているだけで幸福になれた。実に安い、と自分で思いながらも、彼が花を買いに来た日は一日機嫌良く過ごせる。そういうものだったのだ。

 彼が高校の制服をスーツに着替えて、一騎がアルバイトではなく正式に花屋の店員になってからも関係は続いた。未だに名も知らぬ彼は、それでも一騎の中でなによりもうつくしい存在だ。
 ――そんな彼がある日、一人の少女を伴い花屋を訪れた。彼の柔らかな榛色の髪とは違う、真っ黒で艶のある長い髪。一騎は、その少女が誰であるのかを、一瞬で悟った。

「今日は、妹の退院祝いなんだが」

 彼が、もはや聞き慣れた耳触りの良い声で言う。なるほど、退院したのか。当日、病院前で渡したりするものじゃないのか? と思いながらも、一騎はひとつ頷いた。少女は彼の服の裾を引きながら、そんな一騎を楽しそうな瞳で見つめてくる。
 初めて彼に声をかけられた日のように、一騎は必死に頭の中から知識を引っ張り出した。彼に予算を聞いてから、長い付き合いなのでこっそりポケットマネーをプラスして花や包装を豪華にする。あくまでもこっそり、女の子でも持ちやすいサイズで、派手過ぎず淑やかにまとめる。
 一騎はこれまた彼や親しい友人以外には意外だと思われているが、手先が器用だ。他に客もいない。少しの時間をもらって、見事な花束を作り上げて見せた。
 どうぞ、と料金と引き換えに少女に手渡した可愛らしい花束を見て、彼は「盛ったな?」と一騎に視線を寄越したが、一騎は「俺からの退院祝いだよ」と答えるだけで精一杯だ。ポケットマネーとはいえ料金に問題はない。しかしどうにも彼にそういった事柄を責められると、弱い。彼は短く息を吐いてから、少女は満面の笑みを浮かべて感謝してくれたのが救いだ。

「退院した。ってなると、もうあんまり用ないよな、ここ」
「店員がそれでいいのか? 頻度は減っても御贔屓に。くらい言ったらどうだ」
「だって、花が必要なことってないだろ。……あっ、彼女とか?」
 サラリーマンって仕事で花が必要なことが多々ある職業じゃないよな? と考え、最終的に一騎が辿り着いた結論は恋人という存在だった。口に出してから、少し胸の辺りがもやっとする。今まで彼が見舞い以外の理由で花を求めに来たことはないが、彼女の一人や二人いてもおかしくはない容姿だ。いや、彼女が二人いるのは問題だが。

「総士」

 一騎がそんなことをもやもやと霧のかかったような思考で考えていると、少女が彼の名前を呼ぶ。そうし。彼はそうしという名前らしい。初めて聞いたはずだが、彼にその名前以外はあり得ないと思うほどにしっくりとくる。まるで前から知っていたかのようだ。前から知っていたような物言い――それは彼、そうしの十八番だ。

「分かっている。……赤薔薇を、一輪もらえないか。紅色が良いんだが」
「紅の薔薇か? ちょっと待っててくれ」

 妹の言葉に背を押され、そうしは少し恥ずかしげに、一騎にひっそり秘密を打ち明けるように告げてきた。赤薔薇ということは、本当に恋人宛か。紅と指定してくる辺りもそれらしい。もやもやは最高潮だが、一騎はてきぱきと紅色の中でも状態の良いものを選んで、今までと同じように手早く大切に包んでやる。

「んっ」
「ありがとう」

 一輪の花、いつも通りのやり取り。榛色の髪、黒いスーツ。赤薔薇がよく映える。しかし一騎から見て、主役は薔薇ではなくそうしだ。もう世界で一番うつくしいこの姿も見られなくなるのか。と思うと、正直に言ってしまえばとても寂しい。
 次を匂わせることを言っていいものか。見舞いのために花屋を訪れていた彼だ。またな、ではなく、ありがとうございました。で送り出すべきなのだろう。
 そう考えながらも一騎が別れの言葉を口にできずにいる間に、そうしは何故か購入したばかりの赤薔薇を、そっと一騎へと差し出して、ゆっくりと赤い唇を開いた。

「好きだ」

 耳触りがよすぎて、言葉の意味を理解する前に、その声は一騎の中へと入り込んでしまう。

「さすがにここでは一輪が限界だが、意味は間違っていないと思う。一目惚れだ」

 本当はどれだけの本数が欲しかったんだ? という言葉は、一騎の喉の奥から出てこない。ぱくぱくと酸素を欲して喘ぐように、頬が熱くなるのを感じながら一騎は口を開け閉めするしかない。
 一目惚れ。――紅色の薔薇の花言葉はなんだった? ――死ぬほど恋焦がれています?
「なっ、えっ、……はっ!?」
「自分で稼げるようになるまでは。……と考えていて結局は告げられず、妹の退院の方が早くなって背を押される始末だが、……受け取ってもらえるか」

 助けを求めるように一騎はそうしの妹を見るが、少女は「選ぶのは一騎だよ」と何故か初対面であるはずの一騎の名前を言い当てながら微笑むだけだ。
 一騎が視線を目の前の青年へと戻せば、世界一うつくしい生き物の頬が、うっすらと赤くそまっている。もうそれだけでなにかたまらない気持ちになり、よく分からない衝動がどこから湧いて出てくるのか溢れ出して止まらない。
 指先はぴくりとも動かないが、きっと一分後には喜んでその赤薔薇を受け取ってしまうのだろうなと。一騎は我ながらめずらしく予感が当たりそうだと熱い息を飲み込んだ。
×