シーツの上で、榛色の髪がうねっている。窓を叩く音は、すでに風流では済まされない音量だ。総士は今日の仕事は昼からだと言っていたが、それまでに止むだろうか。一騎は適度な温度を保ち、体を優しく包み込んでくれる布団に別れを告げ、上半身を起こした。
 まだ自分の温もりが残る布団から抜け出して、窓の外を覗き込む。地面を叩く雨は、暫く止みそうにない。ミールによってある程度の気候が約束されている竜宮島にしては珍しい部類の大雨だ。降らないのも困るが、降りすぎても困る。部屋の中にいても雨の香り――水の匂いがした。
 時刻はまだ午前四時過ぎ、静かに寝息を立てている総士を起こすにも忍びない時間だ。昨日の夜は九時には布団に入ったが、寝たのは互いに零時を過ぎてからになってしまったわけだし。正直に言えば、一騎もまだ少々眠い。
 カーテンを閉めてしまえば、部屋は薄暗いとは表せない深い闇に包まれる。一騎は夜目が利く方ではあったが、一瞬真っ暗な世界に手足が凍った。大丈夫、もう見える。また、見えるようにしてもらった。一騎は、いつも誰かから何かを貰ってばかりいる。自分は戦うことしかできないというのに。護ることさえ、できなかったというのに。

 気が抜ければ深海へと沈んでいく思考を振り払い、一騎は再び布団へと身を潜らせた。微かに自分の体温が残るだけの布団ではなく、現在も人間の体温であたためられている布団に。
 長く伸びた綺麗な榛色の髪に顔を埋めるようにすれば、自分の髪から香るのとはまた異なる匂いがする。昨夜は同じシャンプーを使ったはずなので、差異はいまも眠り続けている総士自身の体臭によるものだろう。すり寄り、犬のように匂いを嗅いでは、肺いっぱいに総士の香りを取り込み恍惚とする。一騎が同性とは思えないほどに、総士からは良い匂いがする。
 以前一騎がそんな話をした時、総士は「相性の良い、要するに自分の遺伝子的な欠点を補える遺伝子を持った相手の体臭は、好ましい匂いだと感じるそうだ。真偽のほどは分からないが」と真面目な声音で答えていた。少し笑みを浮かべて、一騎が匂いだろうと遺伝子だろうと、自分の何かを好ましいと思ってくれていることを喜ぶように。
 一騎は――じゃあ、総士は? と、聞こうと考えて、聞けなかった。同年代と比べて細身ではあるが、正真正銘男でしかない自分がすり寄って、嫌だと思ったりしないのだろうか。細身といっても柔軟な筋肉は十分についているし、最近は子供らしく丸く柔いだけの体でもなくなった。
 総士があまりにも嬉しそうに微笑むから、一騎は拒絶されないと分かってはいても、恐怖心から総士に問うことができなかったのだ。自分がこんな風にお前に甘えても、不快ではないのか、と。

 肺を総士の香りで満たして、恐る恐るその背中に寄り添う。じんわりと伝わってくる体温は高く、普段の総士から感じる印象とは少し噛み合わなくて面白い。きっと、総士の睡眠時の高い体温は、一部の限られた人間しか知らないのだ。例えばそれは肉親程度の範囲の狭さであろう。
 もっと優越感に浸るのならば、熱に浮かされた総士の体温や息遣い、求めてくる手や熱量は、一騎だけしか知らない。一騎だけに与えられたものだ。気をつけてはいたのだが、総士の髪と服に隠れた背中の傷痕は痛々しい。一騎が総士を傷つけないようにと気にしていればするほど激しくするのだから質が悪い。
 一騎は際限なく甦ってきそうな記憶に短く溜め息を吐いて、昨夜の濃厚なやり取りを思考の隅へと追いやった。寝る前に直しはしたが、汚れて乱れたシーツは朝早くから洗濯をしても雨空の下では乾くかどうか。先日の夕方から溝口のもとへと酒を飲みに出掛けた父が帰ってくるのは夜になるだろうが、一日降られたら洗濯は明日になる。シーツなどは下着のように気軽に洗えないのが難点だ。少し作戦を練らねばならない。
 別に、洗濯をするのは史彦ではなく一騎だ。堂々と洗って干せば良い。だが、父に総士との関係を話していない以上、やはり若干の居心地の悪さが一騎にはあった。総士にじわりじわりと外堀を埋められているような気がするのも理由だ。なんとなく、いつか一般的に正しいと思われる形で、この交際は島の住民に露見するだろうという予感があった。総士は、いつだって一騎の何歩か前を見据えているというのに、常に一騎のとなりにいる。

「そうし」
「……めが、さめたのか。かずき」

 そっと、長くうねった髪に埋もれるように。背に額をつけて半身の名前を呼べば、想定外の返事を与えられて一騎は混乱した。思考が止まったほんの数秒の隙に、総士は布団の中で体を反転させて一騎を抱き込んでしまう。薄い寝間着越しに、いままでの比ではない熱が分け与えられ、注ぎ込まれる。

「どうした、寒いのか」
「っ、……ちょっと、肌寒い、けど、平気だから、そうし、」
「雨音がうるさい。こうでもしなければお前の声が聞こえないだろう」

 耳元で囁かれ、一騎は「さっきは背中を向けていても聞こえてたじゃないか!!」と叫び出したくなった。内緒話もできないほどに一騎がくすぐったがりなのを、総士はよく知っている。なので、すぐに故意だと一騎は悟った。甘えられて、甘やかされて、とても気分が良い。だが、それ以上に恥ずかしい。振りほどこうと思えば簡単に振りほどける手ではあるが、一騎は総士に逆らうことができない。故に、抱き込んでくる腕の力がゆるんでも、体温が馴染んでも、一騎は身動きせずにいた。暗闇の中で、とくとくと脈打つ心音に耳を傾ける。

「雨、やむと思うか?」
「さあな。止まないようなら傘を貸してくれ」
「わかった、総士」

 囁き声でも雨音にかき消されない距離で、ぽつりぽつりと言葉を落とす。今日の朝食は何が良いかだとか、次に会う日の約束だとか。決して女の子のような柔らかさはないが、鉱石や結晶とは異なる総士の皮膚の感触に、一騎は安堵した。

 自身の手の中にある美しく輝かしい命が砕け散る感覚。自分は何もしていないのに、儚く崩れてしまったその瞬間、一騎の身を包んだのは、高揚感などではなかった。深い絶望、虚無感。――奪われた。という、強い怒り。
 あれは、あってはならないことであった。綺麗な総士を、誰かが、――自分以外の何かが、傷つけるなど。壊すなど。それは、一騎には許されていない。一騎自身が、そんなことを考える自分を許せないと自己嫌悪に陥っていた事柄であったというのに。

「そうし」

 暗闇の中でははっきりと視認できない総士の顔を飾る傷跡を、一騎は指の腹で撫でて確かめる。答えるように、総士は闇に溶けてしまいそうな一騎の黒髪を手で鋤いた。柔らかすぎない髪は、さらさらと総士の指の間をすり抜けこぼれ落ちていく。
 一騎は和解を経ても、自ら望んで深海に留まっている。どの明かりと、声の中にも入ってはいけない。――しかし代わりに、総士が重たい暗闇の中に身を沈めてくれる。その事実は酷い快感を一騎にもたらしてくれた。
 伝わる温度に、肺だけではなく、胸が、全身が皆城総士という存在でいっぱいになる。一騎。と総士が一騎の名を呼ぶ声は、二人きりのせいか妙に甘い。
 もはや激しい雨音など、総士の声と深海の重たさに浸る一騎には、聞こえていないも同然だった。
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