その日、水鏡美三香は少々緊張した面持ちで喫茶楽園の扉を開いた。時間は、早めだが問題はないはず。暇のあるメンバーは手伝いのために早く来てほしいと言っていたし。
 それでも、美三香はそっと扉を開いて、窺うようにこっそりと中を覗き見てしまった。日の光を大きな窓から取り込んで、明るい店内。キッチンには、既に今回の女子会メンバー唯一の男性参加者――正確には食事を提供してくれるだけで参加者ではないのだが――真壁一騎が立っている。そっと、しかし気配を殺していたわけではないので、美三香はあっさりと一騎に見つかった。

「……おっ、早いな。入れよ」
「お、おじゃましまーす。なにか手伝えること、ありますか?」
「んー……水鏡は、早く来ても座らせておけって言われてるんだけど……これ、持っていって、広げてから座ってくれるか」
「美三香、了解です!」

 一騎から渡された人数分のプレースマットを、指定された机に広げて置いていく。美三香には友人である御門零央ほど馴染みのない場所だが、机が寄せ集められた喫茶楽園というのはどこか新鮮な気分になってわくわくする。
 他に何かありますか? と与えられた手伝いを終えた美三香は一騎へ聞いてはみるが、座っていい。と逆に気を遣われてしまった。水鏡は今日の主役なんだから、と。

「ごめーん一騎くん! おそくなったー!!」

 美三香が席について、暫く。キッチンの中にいる一騎と盛り上がりはないがぽつりぽつりとした会話を楽しんでいると、喫茶楽園の扉が勢い良く開かれた。彼女に美三香のような緊張と遠慮はなく、一騎から許可を得ることもなく、淀みのない足取りで店の奥へと足を踏み入れていく。
 ささっと自分のエプロンを身に付けて一騎と並んだ姿を見て、やっと美三香は挨拶の言葉を口にできた。

「遠見せんぱい、こんにちは!」
「こんにちは美三香ちゃん、はやいね」

 短く切り揃えられた髪が、少し慌ただしい真矢の動きに合わせてふわりと揺れる。舌足らずにも聞こえる甘い声はいつも通りで、緊張していた美三香を安心させた。
 しかし、ここにくるまでの間、遠見真矢という女性は島外派遣のための説明会のようなものに出席していたはずだ。彼女は可愛らしい容姿と蕩ける声の甘さに、とても強い意思を秘めている人だった。つい先日ファフナーのパイロットとしての初陣を終えた美三香にも、アルヴィス内の情報は入ってくるようになっている。まだ慣れないこともあるが、違和感はそれほどない。
 真矢は一騎が何かを言う前にてきぱきと自らの仕事を開始したようだ。手伝いもせずに一人座っている居心地の悪さは、不思議と感じられない。逆に自分が手を出せば邪魔になってしまうだろうな、と察することができるほどに、二人は互いの領域というものを理解し合っていた。少し、そんな関係を築いた相手がいることを、美三香は羨ましく思う。友人である零央や彗と、いつかそんな絆を結べたら良いと思った。

「あれ、一騎くん、これは?」
「ん? ああ、それは御門さんちの――」

 喫茶楽園は店内に曲などを流していないので、美三香は人より少し優れた耳で一騎と真矢の声を聞きながら時間を過ごす。そうしていると真矢の声で落ち着いていた心に、そわそわとした気持ちが戻ってきてしまう。

 やがて、再び喫茶楽園の扉は開かれる。扉の音に惹かれ、美三香は視線を移した。一騎達の背中は見ていて飽きないが、なんとなく気分が高揚しているため新鮮な空気を求めてしまう。

「あ、もう二人も来ちゃってる! 芹ー! はーやーくー!!」
「待ってよ里奈ぁ!!」
「芹が乙姫ちゃんに話してからいくんだーって言うから私も付き合っちゃったんでしょ! 主役も遠見先輩も来てるよ!!」
「え、うそ!?」

 先に扉から顔を出したのは西尾里奈だった。双子の弟である西尾暉と揃いのような髪が元気に揺れる。スタイルの良い体を隠さない、それでいて健康的に見える服装は彼女の魅力を十分に引き出している。西尾商店には美三香もお世話になっているので、見慣れた顔だ。
 その里奈に遅れて楽園へと飛び込んできたのは立上芹。長い黒髪、高い身長。見目で言えばおしとやかとかっこよさが同居した彼女が、実は昆虫などが大好きなことを島の人間の大半が知っている。そういった島番組、というやつがテレビで放送されているのだ。芹自身は不本意だという態度だが、美三香が見た限りでは、結構ノリノリに見えた。
 ごめんね遅くなって。と美三香に声をかけ、二人はいそいそと机を飾り付け始める。といっても邪魔にならない程度にひっそりとしたものであったが、地味には見えない。淑やかな華やかさのある飾りだ。

「里奈せんぱい、これどうしたんですか?」
「んー、芹がうちの商品を改めて見てみたら、パーティー飾り付けセットーみたいなのがあるって言うから。あっ、ちゃんと実家の店とはいえお金は払ってきたからね?」
「機会がないと使えないよね、こういうの」

 ひらひらと里奈が薄っぺらいビニールを振り、芹が笑う。ビニールには≪これで君の家もお城に変身! パーティー飾り付けセット≫と書かれていた。どこで誰が生産しているのか。美三香も、準備を進めるために寄ってきた真矢も、純粋に興味を惹かれた。

「あ、そうだ。美三香ちゃん、これおみやげ。観察したら、ちゃんと山に帰してあげてね」

 ふと思い出したように言った芹が美三香へと差し出したのは、案の定虫かごだ。中にはおそらくカブトムシのオスが入っている。

「あ、ありがとうございます……」
「乙姫ちゃんに見せに行って後輩にプレゼントって、芹……」

 美三香は昆虫が嫌いではない。夏休みの自由研究はこの子の観察にしようかなあ。と少し考えた。一騎に女子会中、虫かごをどうしようかと相談すれば、店の隅へ置いておけばいいとあっさり許可される。どうせ午後から貸し切りだから、と。一騎本人の性格もあるだろうが、こういったことには慣れているのかもしれない。

「咲良とカノンはまだお仕事?」
「私達がアルヴィスを出る頃には終わっていたみたいですから、もう少しで来るんじゃないかと……」
「すまない! 予定より八分の遅れだ!!」

 ――芹の声に被せるように、タイミングよく、楽園の扉が開いた。

「開始予定の時間まではまだ十五分ちょいはあるでしょ。でも遅れて悪かったわ、やっぱりもうみんな揃ってるか」

 みかみかー、と手を振るのは、美三香もよく知る大好きな先生だ。
 本日の女子会の最終メンバー二人が到着した。羽佐間カノン、そして要咲良。どちらも美三香にとっては先生と呼ぶべき人物だ。

「あっ、先生! ここ、どうぞ!」

 咲良は、美三香が気付いた時には杖を手放せない人になっていた。一騎と並んでその強さは美三香達の間でも噂になっていて。しかし、ある時を境に、その人はもう以前のようには動けなくなってしまった。
 美三香が引いた椅子に座って、ありがとうみかみか。と、穏やかに笑う咲良が美三香は好きだ。

「一騎、まだ手伝えることはあるか?」
「あー、じゃあカノンは皿とか運んでいってくれるか?」
「了解した、任せろっ」

 真矢がそうしたように、カノンも美三香に挨拶をすると、真っ先に一騎の下へと駆けていった。六人分の食器を軽々と運ぶ姿は前線を退いた人とは思えない。

「これで全部か……俺、ケーキ切るから遠見も座れよ」
「わーいっ、一騎くんはやくはやくっ」
「あら、ケーキってどうしたのそれ。予定にはなかったけど」

 既に席についている美三香や咲良に倣い、里奈と芹が席につく。続けて、エプロンをつけたまま真矢も席に腰を下ろした。何かあれば、自分が動くつもりなのであろう。
 最後に、全員にフォークを配ったカノンが座る。一騎がキッチンから運び出してきたのは、桜色のクリームに覆われたホールケーキだった。

 作りはシンプル、使用されている果物は桃だろうか。淡い色合いで可愛らしく、そして上品にまとめられている。
 かわいい、きれいだと女子から声が飛ぶ。一番先に我に返ったらしいカノンが、えほんっ、とわざとらしい咳払いをして場を一度引き締めた。

「えー、今回の集まりは、女性パイロットのみの集まりとなる。題目は新人パイロットへの激励のための歓迎会……だが、」
「要するに女子会でーすっ、一騎くんはケーキを切ってくれたら出前を持って、皆城くんのところ、だよね? そのまま今日は帰宅だよ、ここは大丈夫だから間違えないでね?」
「みかみか、今日は遠慮せず食べて良いからね。あたしも今日は遠慮せず食べるっ!!」 「また剣司になんか言われるぞ、咲良」
「あんたはいつも何かしら余計なのよ!」
「一騎先輩デリカシーがないと思いまーす」
「ちょ、里奈っ。ごめんなさい一騎先輩」
「いや……」
「もー、みんな一騎くんも美三香ちゃんもついてこれてないよぉ。早く乾杯しちゃお、カノン、掛け声よろしく」
「私か!?」

 普段とは、違う賑やかさだった。母が豪華な夕食を作ってくれた日とは、また異なるあたたかさ。

「……では、竜宮島の平和が末永く続くことを祈り、」

 みんな笑っている。美三香は、この笑顔を守る側の人間になった。

「乾杯!」

 正直に言えば、とても緊張した。上手くできているか不安で、初陣の記憶は曖昧だ。まるで、夢を見ているように。

「かんぱーい!」
「乾杯!!」
「かんぱいでーす!!」

 大好きな先生を、頼りになる先輩を。家で待っていてくれる母を、たくさんの人達を美三香はこれから守るのだ。

 綺麗なケーキに、包丁が差し込まれる。切り分けられたケーキが美三香の目の前の皿にも乗せられた。
 オレンジジュースで喉を潤して、切り分けられたケーキをさらにフォークで切り分ける。そっと口に運べば、それは見た目通り優しい味がした。

「……零央ちゃんのケーキだ」

 母と分けて食べる、御門さんちのケーキ。ではない。それは大切な友人が、試作だけど、練習だけど。と言って、美三香や彗に食べさせてくれるケーキの味だった。一騎と真矢は知っていたのか、優しげな表情でケーキを頬張る美三香を見つめる。

「美三香ちゃん美味しい?」

 美三香の口の中でとろけるクリームのような声で、真矢が問いかけてくる。美三香は、無言で何度も頷くことしかできなかった。

「その、こういう場で言うべきではない事かもしれないが……不安があれば、なんでも言うといい。私たちは、最善のサポートをすると約束したい」

 カノンが、真面目な顔と声音で言ってくる。不安があれば、と言われたら、実は不安だらけかもしれない。でも、

「……れ、零央ちゃんと、彗ちゃんがいるからっ、みみかっ、がんばれますっ! よろしくおねがいしますっ!!」

 二人がいるなら、怖くても大丈夫。きっと大好きな人達を守れる。美三香は、席についたまま大きく頭を下げた。ぴょこぴょこと二つに結われた髪が揺れる。

「二人だけじゃなくて、私たちもいるからねっ! 先輩を頼んなさい!!」
「戦闘中も、今みたいなときも、ちゃんと助け合っていこう」

 漠然とした不安が消えたわけではない。それでも、美三香はここなら大丈夫だと思った。少なくとも、戦う理由はこの上なくはっきりしている。迷うことはない。

「みかみか」

 優しい声で、自分の名前を呼んでくれる人達を守りたい。今まで、自分を守ってくれていた人達を守りたい。

「そんな顔しないの。あたしがついてるでしょ」

 楽園の扉が開いて、閉まる音が聞こえたが、もう美三香にそちらを見る余裕はなかった。ただ、一騎くん、いってらっしゃい。と囁く甘い声だけは聞き取れた。

「み、みみかっ、らじゃーですっ」

 やわらかな手付きで頭を撫でられ、それだけでもう美三香の心はいっぱいいっぱいだったのだ。
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