――暗闇の中で瞼を開く。冷たい、停滞した水が肌にまとわりつく。唇を開けば、空気が泡となって水と混じり合うことなく、闇の向こうへと消えていった。

 久しぶりに見た心象の海は、変わらず真っ暗な深海のようであった。素足に触れる砂の感触も、闇の深さにも特に変化はない。正直に言えば、一騎は少しがっかりした。総士との拙くはあるが本心からの対話を経て、少しはこの海にも変化があるのでないかと期待する心がなかったわけではない。
 ――そうだ、総士を探さなければ。心の海へと潜る前に伝えられた課題を思い出す。この暗闇の世界で、一騎はどこかにいるはずの総士を探さねばならない。二人きりである、という点以外、内容は以前与えられた課題と変わりはない。しかし、そのテストも随分と前の事のように感じる。事実、もうこの海をどれだけ探し回っても、今となっては永遠に見つけられない仲間がいた。失われた痛みは、昨日のことのように思い出せるというのに。

 まずは、歩かないと。水の抵抗感とはまた異なる重圧が、一騎の足を重くする。心の支えのように日の光に照らされた甲洋の海を思い出しては、重たくなる足を進めた。
 海へと潜る前、総士は「たとえお前がどこにいても、すぐに見つけられる」と発言している。空であろうと、海面であろうと、深海であろうと。一騎はその言葉を信じて、広い海の中で総士を探すしかない。
 お前がどこにいても、すぐに見つけられる。だが、僕はお前を、おそらく迎えにはいけないだろう。そう言って、少し悔しげに唇を噛んだ総士の顔を思い出せば、一騎が水圧に押し潰される理由はなかった。
 ――必要なのは、左目の代わりになるものだけ。一騎がいれば、それで良い。やけに不器用に言葉を紡ぐ親友を迎えに行ってやらねば。深海の暗闇は、どこか居心地がよくて安心する。しかし、一度でもその心地よさに身を委ねてしまえば、もう二度と足が動かなくなることを一騎は知っていた。
 だから、ひたすらに前を見据えて歩く。誰の声も聞こえない、だが確かに、一筋の光が見えた。一騎の抱える暗闇の中でさえ見える光など、彼――総士以外にはあり得ない。



 ――まるで、ガラスの塔だ。光が黒に塗り潰される前に、一騎は必死で深海を泳いだ。泳ぐというよりはもがくと言った方が正しい姿ではあったが、何とか辿り着いた先にあったのは、暗闇の中ではそれ自体が発光しているようにも見える筒状の硝子――棒、というよりも、それは塔に見えた。深海から天まで貫く、真っ直ぐで綺麗なもの。

「一騎」

 硝子越しに、ふと総士の声が聞こえた。同時に、一騎の顔を映し出していた硝子が総士の姿を映し出す。正確には、硝子の向こう側にいる総士が透けて見えた。
 無事に見つけられたようでよかった、といつもよりも穏やかに囁く声に、一騎はひとつ頷くことで答える。まっくらやみの中で総士にその動作が見えるのか、一騎は少々不安であった。

「安心しろ、一騎。お前の姿は、僕には見えている。もしお前自身が己の姿を捉えることができずとも、僕は、お前がそこにいると理解している」
「ああ、総士。俺にも、お前が見える」

 そっと、硝子越しに手を合わせる。互いの存在も認識した。課題は、これでクリアだ。しかしまだ、この心象の海を漂う時間があるらしい。だが、総士は硝子の向こう側。主に上下にしか移動できないようなので、深海にいる一騎と共に海を漂うような真似はできない。

「……まだ時間があるようだな。……よし、一騎。話そうか」

 故に、少々不器用な時間潰しが始まった。話そうって、何をだよ。等と言ってはいけない。このように話を切り出したときの総士に話題を求めても、ろくな返答はないと一騎は経験済みだ。かといって一騎も喋り上手で話題が豊富、というわけでもなく。せっかくだから、共通の友人である真矢から聞いた話を総士に話してやることにした。

「……星、遠見が、最近は星が綺麗だって」
「星か。現在の竜宮島の位置を考えれば、以前とそう星の見え方に差はないはずだが……」
「お前って、その、なんかたまにすごい……いや、なんでもない。そんなこと言ったら、普段は擬装鏡面越しじゃないか」

 それもそうだな。と真面目な声が返る。どうせ誘いでもしない限り、夜は窓もないアルヴィスの自室にこもりきりなのであろう。話題を間違えたか? と一騎は少し悩んだ。次の話題を考えるように硝子から視線を外せば、星のような曖昧な光すら見つからない闇が広がっている。

「……ここ、海、なんだよな。俺の海……こんなんじゃ、星なんて見えないけど」

 同じ深海でも、甲洋の海は明るかった。氷の膜に覆われてはいたが、月明かりくらいは見えたのではないだろうか。
 総士は海面から上も見渡せるのだから、星も見えるんだろう? と一騎は軽い気持ちで問いかける。しかし、予想外に長い沈黙が返ってきて不安になった。
 総士の姿は見えている。そこにいる。何かを考えているようだったので、一騎は大人しく総士の思考の末に出される結論を待った。

「……お前にも、見せられるかもしれない。星空だな」
「総士?」
「ここは確かにお前の海だが、僕の海でもある。僕が可能だと考えるのなら、可能になるはずだ」
「総士、意味が、」

 わからない。と告げる声は、喉の奥でつっかえた。目の前から、唐突に総士の姿がかき消えたのだ。まるで、暗闇に飲み込まれるように。

「ッ! 総士ッ!!!」

 思わず叫び声を上げてから、一騎は気付いた。目の前にある硝子の塔は消えていない。触れられる。――それに、一騎の海の暗闇とは異なる色に、塔は満たされていた。
 闇に混じってしまいそうな藍色。その中で、無数の光が瞬く。――星空だ。

「硝子に星空を映してみたが、どうだ?」
「……なんでも、あり、なんだな」
「僕も可能かもしれないとは言ったが、実際にできるとは思っていなかった」

 硝子の密度、反射が。と総士は何やら原理を説明し出すが、一騎には半分も理解できない。ただ、光が、空へと上っていく様を眺める。
 一騎から見ればそれは星空、というより、天の川に見えた。暗闇を淡く切り裂く光の集まり。総士のイメージなのか、一騎の思い込みなのか、時に光が流れ落ちる。
 海の底で、星を見る。その奇跡は、とてつもなく美しいものとして一騎の瞳に映った。
 ――しかし、そんな綺麗な風景にも、一騎はひとつだけ不満を抱く。しかもそれは真壁一騎にとって、何よりも重要な事柄であった。つい文句を言わずにはいられない。

「――でもこれじゃ、総士が見えないだろ」

 硝子越しに、姿も見えないというのに、一騎は総士の困惑を感じ取る。並列思考によるものなのか、よく分からないごちゃごちゃとした考えも。
 時間にしてしまえば、おそらく数十秒。深海の星空という奇跡が跡形もなく消えていく。代わりに硝子の向こう側には、再び総士の姿が透けて見えた。

「……うん。やっぱり俺は、こっちの方がいい」
「そうか。確かにああしてしまうと、僕も一騎の姿が見えない。存在は感じられるが……顔は見えた方がいいな」

 そうだろう? と、一騎は自慢げに言ってやった。硝子越しに見る総士は、満天の星々と比べても劣らないほどにうつくしい。いつだって、総士は一騎の一等星だ。
 この姿さえ、この光さえ傍らにあるのなら、深海の闇を恐れることもない。
 たったひとつ、たった一人だけの星に寄り添うために硝子の塔へと手を沿わし、俯き気味に額もつける。一騎は硝子越しに総士の海のあたたかさを感じながら、押し潰されるような圧力を身に受けても尚、微笑むようにうっそりと唇を歪めた。
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