帰り道、少し息が上がる体の変化を自覚しながら、それでも一騎は足を止めなかった。昔のようには、残念ながら走れなくなった。総士に色々と言える立場ではない。加減を誤って動けなくなるのは、一騎もここ数年で覚えが出来てしまっていた。
 己自身であるファフナーの破損により動けなくなるわけではない。生身の自分の体が、怪我をしているわけでもないのにいうことを聞かなくなる。人並み以上に健康だった一騎には覚えがない感覚だ。
 ファフナーをたくさん怪我させたから、自分もどこか壊れてしまったのだと受け入れる気持ちはあった。それでも息が上がれば、まだ俺は走れるのに、と思う。今となっては、自由に竜宮島を走り回り跳び回れるのは、ファフナーに乗っているときだけ。そのファフナーにすらいまの一騎は乗れなかった。乗る必要もないのだが、ふと、自由に空を飛びたくなるような日が一騎にもある。例えば今日、暑くて晴れていて、青空が綺麗な日。

 ――しかし、大人しく木陰の縁石に腰を下ろしたままの総士の姿を見て、一騎の空を飛びたいという考えはあっという間に頭の端へと追いやられた。

「総士!」

 呼ばれるまでもなく、総士の瞳は一騎の姿を捉えている。かずき、と声なく唇が呟くのが、いまの一騎にはちゃんと見えた。

「……一騎。お前……座れ、顔色が悪いぞ」

 走り寄って、一騎が足を止めた瞬間。総士は思い切り眉をひそめて言う。確かに額から頬に汗が流れ落ちるのを一騎は感じていた。体調が悪いというほどではない、少し、以前より疲れやすくなっただけだ。
 それでもわざわざ立っている理由もないので、総士に言われた通り、一騎は総士の隣に腰を下ろす。葉の間からこぼれ落ちてくる日の光に、どこか懐かしい気持ちになる。西尾商店の袋の中から氷と水をひっ掴み、総士に渡す。そうすると、短い感謝の言葉が返ってくることに、一騎は変に幸福な気分になった。

 水はともかく、氷に関してはさすがの総士も一瞬使用する手段に悩んだらしい。しかし少し躊躇う仕草を見せはしたが、持ち主に許可もとらず無言で一騎がおいていったYシャツに氷を袋のまま包み、首筋に当て始める。好きに使って良いと渡したものなので、一騎も気にせず自分用に買ってきたラムネを取り出した。
 開栓の際に、瓶を斜めに傾けるやり方を島の子供たちは大体知っている。ビー玉を落とす時に容器の口を抑え込んでしまえばそれでいいのだが、一騎は幼い頃からの癖で泡を出さないようにと無意識に瓶を傾けてビー玉を瓶の内側へ押し込んだ。しゅわっ、とそれだけで涼しくなるような開封音がする。
 ペットボトルの蓋を開けて水を喉の奥へと流し込んでいた総士は、一騎の持つラムネの瓶を見て青みがかった灰色の瞳を細めた。木漏れ日の下で見る総士は、普段よりも幼く見えて何やら一騎はくすぐったい。

「なつかしいな……」
「ちょっと飲むか? 飯食ってないと、微妙だと思うけど」

 一騎が西尾商店へと走っている間に、総士の体調はだいぶ回復したらしい。これなら遠見医院に連れて行って、何か食べさせたあとに睡眠をとらせても大丈夫であろう。一騎は自宅の冷蔵庫の中身を思い出し、総士の言葉に答えながらラムネの瓶を差し出した。
 瓶は一騎の手に支えられたまま、総士が飲み口に口をつける。一騎が総士のために少し瓶を傾けてやれば、瓶の中でビー玉が転がり、炭酸がはじけた。
 「食事をしていないなら炭酸は胃に悪い」と告げたかった一騎の言葉を正確に理解して受け取り、総士はほんの少しだけ瓶の中身を味わう。脳の回転率は正常へと戻りつつあるようだ。
 甘いな、こんなに甘かったか。と不思議そうに呟く総士に、お前の味覚が変わったんじゃないか。と一騎も真面目に答える。二人の間に笑い声が響くようなことはなかったが、こんな些細でどうでもいいようなやり取りが心地良い。それは、断絶の空白を埋める大切なひと時だった。

「調子が少し良くなったなら、遠見先生のところに行こう。医院は今日もやってるだろ?」
「ああ……今日の集まりは、遠見先生の代わりに剣司が出るらしい」
「剣司が。へー……剣司も、なんていうか、先を決めた、んだな」

 子供の頃は、よく勝負を挑まれた。一騎の記憶に深く強く刻まれている剣司の姿だ。負けるのに、勝てないのに、毎日勝負を挑んできて。あまり周りと関わらないようにしていた一騎を、方法はどうであれ集団へと連れ出してくれた。本人は無意識だったのだろうがあれは――甲洋のやり方とは、また違ったやさしさだ。今ならわかる、と思うのは、一騎が大人に近付いたからだろう。
 総士や、司令としての父の言葉に従い、時には逆らってきた一騎には分かる。剣司も、あちら側の人間なのだと。何となく、置いていかれているような気がした。命令されて戦うことしかできないのに、もう戦えない自分と比べて。

「お前はどうなんだ。このまま、楽園で調理師をするのか」

 それも似合っているな。と総士は言うが、その言葉に含みがあるのは一騎にも分かっている。いまさら隠し事をする関係でもない。何かを隠せばこじれていくのは、拙い対話の結果、分かりきっている。

「……俺、ちゃんと平和ってやつに見えるかな」

 望めば、戦闘以外の分野でも、総士の隣に並べる立場を得ることは可能なのであろう。それでも、一騎は望まなかった、望めなかった。それがやり残したことになってしまう未来が、ひどく恐ろしく感じられた。総士が一騎に、何か、未来を望んでほしいと思っているとしても。
 もう元の住民の姿は見えない、だが確かにそこにいた誰かを感じる場所で、平和を再現する。いま一騎に与えられているもの、経験してきた全てで出来る、精一杯だ。

 一騎の言葉に、総士は少し驚いたような仕草を見せた。言葉を噛み砕くように、暫し考え込む。一騎の予想以上に真面目な返答が得られそうな雰囲気だ。

「……ああ。楽園が、今日の午後はやっていないことを忘れて、食事をしようと外に出て倒れるくらいには、平和な日常。というものになっている」

 冗談など言っている雰囲気は、微塵もない。
 故に、一騎は、

「……おっまえ! ほんとばかだろっ!!!」

 別に電話でも何でもして、出前でも頼べばよかったじゃないか! 気付けば、先程一騎に向かって叫び声を上げた暉よりも、一騎は大きな声を上げていた。ここで、自分が叱らなければいけないと思った。帰還後、大人にも少々遠巻きにされて、さらに大人びた親友に。自分がそれはいけないことなんだと教えてやらねば、と。めずらしく怒鳴る一騎に、こちらもめずらしく目を丸くした総士。そんな総士の顔を見て、一瞬で一騎の勢いは衰えてしまったのだが。
 叫ぶ代わりに、一騎は手を差し出した。差し出してから、総士はまだ歩けないのではないだろうか。と考え、一騎は慌てて片手だけではなく両手を差し出す。そして、言葉を付け加えた。

「はこぶ」

 たっぷり、十秒は間があった。
 ――長く、深く吐き出される溜息。差し出された手は、片手しか受け入れてもらえなかった。
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