隣の空室が、空き部屋ではなくなるらしい。引っ越し業者がてきぱきと仕事をする音が薄い壁越しに、一騎の部屋にも漏れ聞こえてきた。あまり長時間聞いていたい音には分類されないが、こればかりは仕方がないだろう。せっかくの休日ではあるが我慢する。無意識に、物音に混ざる人の声を拾い上げようとする己に一騎は笑った。
 気にしないと決めたら掃除洗濯、明日の夕食のおかずの仕込みも終わらせて、普段はできない家事に専念する。そのように午前中を過ごし、午後になり。夕飯をどうしようかと考えていた時だ。控えめに、玄関の扉が叩かれる音が聞こえた。――悲しい余談だが、ぼろ方面で年季が入っているだけあって、一騎の住む部屋のインターホンは壊れている。それ込みで少し家賃がお安くなっているのだが。

「あっ、はーい。いま行きます」

 もちろん、インターホンとセットのモニターなんてものもない。ドアスコープから外を一応覗き見るが、そこには見たことのない――おそらく男性。が立っていた。

「えっと……どちらさま、ですか」

 殺しのプロにでも行き当たらない限りは平気でしょ。なんて、通っていた道場の娘に言われたこともある一騎だが、警戒心は常に持っている。幼馴染が「いくら一騎くんが強くても、万が一はいつだってあるんだよ」と言い続けた賜物だ。
 ドアを一枚隔てた向こう側にいる男は、同性である一騎から見ても綺麗な顔をしていた。
 淡い色合いの、女性にも間違えてしまいそうな長く伸びた髪。意思の強そうな、しかし知性と落ち着きを感じさせる瞳。この上なく、と一騎が言いたくなるほどに整った顔立ちなのに、眉上から左目を通り、頬に走る一線の傷がある。
 ――一騎は、他人の顔にあるその傷に対して、何故か怒りの感情を抱いた自身に困惑した。綺麗なものが傷ついているから、勿体無いと思ったのだろうか。そう、無理矢理自分を納得させた。かつて感じたことがないような、どろりとねばつくような感情の噴出に動揺する。
 男は形の良い唇をゆっくりと開いて、一騎の動揺など知らぬ声音で問いに答えた。

「本日隣に引っ越してきました、皆城と申します。初めまして。ご挨拶に伺ったのですが……いま、お時間ありますでしょうか。お忙しいようなら、申し訳ありません、日と時間を改めます」

 扉越しに聞こえてきたのは、人柄が滲み出るような、今時真面目な引っ越しの挨拶だった。しかし一騎に、男の人柄など考える余裕はなかった。

 ――この声を、俺が間違えるはずがない。

 初めてニヒトの声を聞いた時も、何故か強くそう思ったことを一騎は思い出した。間違えるはずがない? 何と? ……誰と?
 己の思考ではあるが、当時は疑問しか湧いてこないような考えだったが、いまは違う。一騎は間違いなく、男の声を知っていた。
 周りから雑音が消える。ただ、その声だけが耳から入り込んできて、脳を犯す。他にはなにも考えられなくなる、ああ、ああっ、気分がいい!!!

 やっと見つけた。やっと会えた。一騎は、心と体と思考をバラバラにされるような感覚を味わった。自分自身という存在を裂かれるような痛みを伴う不快感、強い歓喜。とてもおかしな気分だった。ひどい高揚感に吐き気すらした。

 無意識に、声もなくドアを開け放つ。その声の前では、今も昔も鍵や扉など意味を成さなかった。

 男が突然ドアを開いた一騎を見て、目を丸くする。青みがかった、紫にも見える灰色の瞳が、彼のすべてが! 比べられるものもなく、一番にうつくしい。
 一騎はつり上がる唇も、蕩ける目元も、ゆるむ頬も制御できず。当たり前だが、勝手にその言葉を発する喉も舌も唇も、止めることはできなかった。

「――そうしっ」

 知らない名前を、まるで神を讃えるかのように一騎は口にする。
 たった三文字。記憶にないその名前は、とろりと甘く舌の上で溶けてしまう。

 それは味わったことのない極上の甘味だと。真壁一騎は、≪ずっと昔から≫知っていた。
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