六畳一間。トイレ台所付きだが、風呂場はない。近所の銭湯へと普通ならば自転車を漕いでいかねばならない距離であるそのアパートは、いわゆる時代遅れのおんぼろアパートというものだった。
 しかしそのアパートが、真壁一騎の現在の城である。父と母に金銭面で頼らない一人暮らしというのは想像以上に難しく、結局は外観からしてとても時間が経過していますよと主張の激しいアパートへと入居してしまった。
 男の一人暮らしにしては、綺麗に片付けられている部屋だと一騎は思う。それに普通の人間が自転車を使う距離でも、徒歩で平気な体力もある。
 一騎なら大丈夫でしょ。と、不安しかない防犯面においても、父と母が何も言わなかったことは幸いだった。何故なら一騎には、誰にも邪魔されたくない、他の誰が発する音も聞きたくない特別な時間があるのだ。

 狭く物の少ない部屋に似合わないパーソナルコンピュータ――パソコンの前に座って、イヤホンを耳の穴へと差し込む。一騎はとある事情によりイヤホンやヘッドフォンを好まないが、この時間だけは話が別だ。そわそわと落ち着かない手付きで、既に指先が震えた。
 好まないイヤホンを使うのは、住んでいるのが壁の薄いぼろアパートだという理由もあるが、他の誰にも≪彼≫の声を聞かせたくない。割り込んでほしくない。だから、あまり好かない機器も身に付ける。そういう単純な理由だった。
 それに、一騎の部屋は隣も上も下も空き部屋だ。管理者としては残念だろうが、一騎の住むアパートにはその他にも空室がある。わざわざ人が住んでいる部屋と隣り合った空き部屋を選ぶ新規の住民もいない。気楽な生活だった。

(こうすると、よく聴こえるし)

 やがて、いつものように、微かに甘さのある低い歌声がパソコンからコードを伝ってイヤホンから流れ出る。音楽再生くらいにしか使用されていないパソコンは泣いているだろうが、一騎にとってその時間は、何よりの至福を味わえる瞬間だった。
 一度、幼馴染に携帯音楽プレイヤーを買えば良いのにと言われたことがある。そんなのとんでもない。家族にすら、彼の声に浸っているときの己の姿は見せられたものではないというのに。

 パソコンの画面に映っているのは、穏やかで、しかし少し物悲しげに見える島の風景だった。とあるアイドルの新曲のディスクジャケット画像だ。
 アイドル、のCDジャケットにしては大人しいそれは、しかしそのアイドルの特質を思えば当たり前のものと言えた。かのアイドルは、≪顔を出さない≫アイドルなのだ。
 アイドルにしては重たく暗い歌詞。それを見事に説得力を持たせて歌い上げる。実は歌手としての露出も控えめで、主に朗読やナレーションの仕事が多い。それは本当にアイドルなのかと、一騎は疑問に思っている。
 ――芸能名はニヒト。性別は、おそらく男性。しかし性別がどちらかなど、一騎には関係がなかった。

 ――だって、一騎の耳から脳髄をくすぐる声は、まるで麻薬のそれだ。

「……ッ、」

 何度聴いても考えが変わるようなことはない、これほどの、こんな美味は味わったことがない!
 現象としては、ただの空気の震えにすぎないのであろう。しかしその声は、確かに一騎の悦楽を引き出した。皮膚の裏側、血管を通って指先まで満たされるような響きに、体が歓喜で震える。一騎が知る者の中で、それは誰よりもうつくしいと言える声の持ち主だった。恥ずかしいと思う気持ちもあるが、それこそ恍惚とした表情で自信を持って語れるくらいには。

 一騎は生まれ付き耳が良かった。正確には聴力が。他の五感も人並み以上に優れてはいたが、その中でも特に。
 一騎自身に自覚はなかったが、ニヒトの声を聞いてしまってからはもうだめだった。にぶいにぶいと精神的なことで繰り返されることもある一騎が、自分は人の声というものに一種の執着や拘りがあると自覚してしまった。
 父の低く安心する大人の声。母の落ち着きに隠れて活発さの窺える声。幼馴染の、少し舌足らずでとろけるような甘い声。
 思えば、一騎は幼い頃から人の声を聞くのが好きだった。誰の声でも良いというわけではない。好きの中にも、聞き続けていたいと思う声がある。
 しかし、ずっと、永遠に。この声を聞いていたいなんて思うことは、なかったのだ。

 ――一騎くんは人とお話しするのはあんまり得意じゃないみたいだけど、人の声を聞くのは好きなんだね。ずっとこのままでいたい、って顔してる。

 ずっと誰かと。――そんなのまるで、中毒ではないか。
 一騎は、自身が誰かに依存する。という行為が、どうしても許容できなかった。なんとなく、それが声の好みなんて話であろうとも。特定の誰か。を、選ぶような真似をしてはいけないような。その思いがどこから湧いてくるものか、分からなかったのだが。
 どこか強迫観念に似たそれは、いつだって一騎の中にあった。――ニヒトの声を、聞いてしまうまでは。

 自身でもおかしいと思う執着であったが、一騎はニヒトに、その声にのめり込んでいった。わけの分からない、覚えてもいない悪い夢から目覚めさせてもらったような。ずっと抱えていた空白を埋めてもらったような。妙な心地のよさに陶酔していった。父や母でさえ満たせなかった一騎の一部を、その声は間違いなく満たしたのだ。

(……相手の顔も分からないのに、声だけでこんなに気分がよくなるなんて、気持ち悪い)

 俺が。

 体の芯に響いてくる声に耳を傾けながら、高揚感を過ぎてやってくる嫌悪感や罪悪感に一騎は身を任せる。 薄い座布団の上で膝を抱えて、一騎は思考の海に身を投げた。
 未だに、その感情の根元も分からぬまま。――流され漂うだけで、考えないのはとても楽だった。それでは駄目だと、叫ぶ自分がいたとしても。

(なんでこんなに、)

 満たされているのに、喪失感があるのだろう。そう思った。
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