「総士」

 一騎より先に、乙姫が総士の名を呼んだ。一騎たちを視界に捉えた一瞬、総士は驚いた顔をしたが、すぐにいつも通りの表情を繕って一騎たちの方へと寄ってくる。思わず身構えてしまった一騎の胸を、一騎に後ろから抱きつくようにして自分の体を固定していた乙姫の手が撫でる。大丈夫だよ、と。声もないのに、小さな手のひらの熱が伝えてくる。もう、背中にある熱に頼りなさは感じなかった。

 総士のそばで、一騎は自転車を止める。総士は、改めて珍しいものを見た。と言いたそうな顔をしたが、まずは自転車の荷台に腰を下ろしている己の妹から状況を処理しようとした。

「どこへ行っていたんだ」
「内緒だよ」
「遠見先生が心配していた」
「じゃあ、千鶴には謝らないと」
「お前を探し回っていた僕に対する謝罪はないのか」
「お兄ちゃんにわがままを言ったりするのが、妹でしょう? 総士」

 一騎も、思わず、めずらしいものを見た。という顔になってしまった。正確には、めずらしい総士の一面を見てしまった、か。
 兄らしく妹を叱る総士なんて初めて見た。しかし、総士と乙姫という兄妹のこんなやりとりを、ずっと見てきたような、不思議な気持ちになる。
 ――もしかして、皆城乙姫は総士がここに現れることを分かっていたからあの公衆電話を指定したのだろうか。一騎は、ぼんやりと兄妹のやりとり眺めながらそう思った。

「……まあ、いい。とにかく、戻るぞ」
「わたしは戻るよ。でも、総士は一騎に付き合ってあげて」

 一騎と総士が言葉を理解する前に、乙姫は自転車の荷台から降りていた。一騎と視線を合わせて、まっすぐな――一騎たちとは、虹彩が大きく異なる瞳を持って告げてくる。

「――ありがとう、一騎。助けてくれて。総士のことも、よろしくね」

 そう言って、少女は公衆電話など使うことなくアルヴィスへの通路を出現させると、総士を一騎のそばに置いたまま通路を閉ざしてしまった。



「……」
「……自転車を買ったのか」

 二人きりになった途端気まずくて黙り込んでしまった一騎に、総士が話題を選ぶように声をかけてくる。乙姫のことは感謝する、彼女の行動に関してはあまり気にするな、と言いながら。

 遠見には遠く及ばないが、一騎は一騎なりに総士を観察してみた。自転車を買って、しかも乗っている一騎を見て、珍しいものを見た、というよりは、お前には不要だろう。といった純粋な疑問が込められているような、いないような。
 そんなことはない、俺も走れば疲れるし、買い物にも便利そうだ。音にはされていない総士の言葉に、一騎は心の中で反論する。しかし、走っても疲れることはないどころか、実際自転車よりも速く一騎は走れた。確かに要らないかもしれない、急ぎの買い物には便利そうだけど。

「……うん」

 なんてつまらない返事だろう。一騎は自分でそう思った。それでも総士は嬉しそうな顔をしてくれる。お前との会話は楽しいよ、と伝えるような顔を。
 これではいけない。自分はもっと総士と会話をするのだ。自分が総士を避け続けていた数年間を取り戻せるくらいに。一騎はぐっと素っ気ない言葉を飲み込み、それから総士に声をかけた。

「……後ろ、乗るか?」

 女の子を誘ったときよりも、何十倍も緊張して震える情けない声だった。総士は目を丸くして、まぶたを数回瞬く。

「……二人乗りは危険だ」

 ――まさかの、真面目な返答だった。俺の勇気をどうしてくれるんだという、理不尽な怒りさえ湧いてくる。だが、確かにこれが俺の知っている皆城総士だ。と、一騎は思った。
 じんわりと胸に広がる、帰ってきて、総士と会話をしているという事実が、一騎の背を押した。

「ひとり山にいこう、二人で」
「また突然だな」
「いいからのれよ」

 ぶっきらぼうな一騎の物言いに、やれやれと言いたげな総士だったが、大人しく妹に代わって荷台に腰を落ち着ける。まあたまにはいいだろう。と。
 女の子と比べて男は重い。ずしりと伝わる確かな重みに、一騎はとても安心した。



 男を後ろに乗せようと、一騎の運転する自転車は危なげもなく安定して走り出した。皆城乙姫に似ているが、少し遠慮がちな総士の腕は、それでもしっかりと一騎の腰に回されている。
 自転車を走らせてきた道を戻りながら、秘密を打ち明けるように一騎は言った。

「翔子と、約束したんだ。平和になったら、自転車を買って、毎朝迎えに行ってやるって」

 約束。そういうには、軽すぎるやりとりだったけれど、翔子はとても幸せそうだったから。
 叶えたかった。叶えて、やりたかった。落ちた声は、少し水に濡れていた。
 竜宮島へ戻って、一騎は翔子の欠片すら入っていない墓の前で、島の外で見たことを話してやった。楽しくない話もした。翔子なら、あの白い鳥を大空へ羽ばたかせられる翔子なら、俺なんかが話さなくても、実際に見に行けるだろうけれど。だけどそうして話してやることで翔子は喜ぶ気がしたし、翔子はいつも、竜宮島にいる気がしたから。
 翔子の声が思い出せなかった。どんな会話をしたのか、あの少女がどんな顔で笑っていたのか。――甲洋ならば、ちゃんと全部覚えていてやれるのにと、馬鹿なことを考えた。

 一騎の話を聞いた総士は、そうか。と、冷たくも聞こえる言葉を返した。そっと、一騎の背に自身の体を預けながら。全てを委ねられているような、許されているような、海風の冷たさのせいか擦り寄ってくるような感触に、一騎は慰められている気がした。

「……僕は、自転車に乗れないんだ。羽佐間翔子、彼女と理由は異なるが」

 一騎が秘密を吐露した報酬か。総士も、普段なら言わないであろうことを口にした。総士の言う「理由」は、一騎にはすぐに理解できた。

「乗ろうと思えばのれると思う。しかし、遠近感が分からない身では危険だと考え、フラッシュバックのこともあり、自粛している。特に必要な身でもないしな」

 遠い道も、アルヴィスの中を通ってしまえばすぐだ。
 年相応の子供らしく、総士は悪戯を打ち明けるように言った。――左目の傷のことは、間接的には触れるが、直接的には言葉にしない。一騎が怯えない、一騎との心地の良い距離感を、総士は模索している。

「……じゃあ、総士は、総士が、……自転車に、乗りたくなったら、俺の後ろに、乗ったらいい」

 ずっと、一生。総士が必要だと言ったときは、必ず答えるから。
 一度は与えられ知ってしまった重みを、体温を、一騎はもう二度と手放したくなかった。

「……ああ、頼む」

 総士の声は、皆城乙姫と同じようにどこまでも穏やかだった。しかし、甘やかすような乙姫の声音とは異なり、総士の声には甘える色がある。

 島がどこにいても海は本物で、青くて広い。偽りの膜に覆われた空は、今となっては大人たちが必死になって守ってきた平和の象徴のようだった。
 ひとりで行くと危ないから行かない方がいい、しかしひとりになりたい奴が行くひとり山へ、二人で行くのも良いな。そう囁く総士の声に、一騎はなんだか潮風が目に沁みた。
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