その少女は、道の隅で動けなくなっているようだった。綺麗な長い黒髪も、乾いたコンクリートの地面についてしまっている。アルヴィスの制服に身を包んだ少女は一騎もまだ見慣れない新顔であり、しかしずっと昔から確かに島にいた存在だ。

「……皆城、乙姫」

 自転車を止めて、微妙な距離を保ったまま、少女の背に声をかける。振り返った少女は一騎の予想通りの顔をしていて、内心安心した。一騎、と少し舌足らずな声で少女が答える。

「どうしたんだ、こんな場所で」
「疲れて、動けなくなってしまったみたい。限界が、まだよくわからなくて」
「……大人、呼ばないのか」
「わたしはやりたいことのために勝手に出掛けて、勝手に疲れて、動けなくなってしまっただけだから。少し休めば平気なのに、わがままで呼んだりしないよ」

 そう言って笑って見せた少女の声音は高く、年相応だったが、言葉の落ち着きは少女の同世代の子供と比べられるものではない。
 皆城乙姫。皆城総士の、実の妹。そして、竜宮島における神にも等しい存在。詳しく難しい話はされていないが、一騎もそれくらいは理解していた。

「大丈夫、なのか」
「うん。休めば、大丈夫だと思う。ちょっと無理をしてしまっただけ」
「……やりたいこと、って。どこか行くなら、誰か連れていった方がよかったんじゃ、」

 そこまで言って、一騎は言い過ぎた。と感じた。あまり、相手の言わないことを、自分は暴こうとしない方がいい。総士とぎこちのない和解には至ったが、一騎の意識が劇的な変化を迎えたりはしていない。――傷つけるかもしれない。そう思った。あの総士の、妹だからこそ、強く。
 乙姫は、一騎のそのような葛藤も見透かしたかのように、ゆっくりと赤い唇を開く。

「ひとり山に、行ってきたの」
「ひとり山に? あそこは、」
「しってる。ひとりで行くと危なくて、でもひとりになりたい人が行く山、なんでしょ?」

 乙姫の言葉に、一騎は声の続きを飲み込んだ。――皆城乙姫は、ひとりになりたいからひとり山に行ったのだろうか。その疑問も、胸から喉を通って、口から飛び出してしまう前に仕舞い込む。
 乙姫もそれ以上は語るつもりがないらしく、自転車にまたがったままの一騎に、まるで普通の少女のような笑みを向けてくる。
 一騎は何やら自転車に初めてまたがった時以上の居心地の悪さを感じ、地面に座り込んでしまっている乙姫を見て、後先を考えずに言葉を発した。

「後ろ、乗るか?」

 自転車の、サドルの後ろ。荷台を示してそう言う。

「そのままだと服も髪も汚れるだろ、アルヴィスまで運ぶ。……あっ、いや、抱える。じゃない、……えっと、」

 翔子とも、こんなやりとりをしたなと思い出す。翔子とそんなやりとりをしたから、いま、一騎は言葉を選ぼうとしている。  あの時と違うのは、言葉を変えようとする一騎を見て、対する少女が優しげに微笑んだことか。

「うん。お願い一騎、わたしを運んで」

 さらに、運んで、と。一騎が最初に言ってしまった言葉を使って返してきた。なんとなく、妙な照れを感じながら、一騎は乙姫を助け起こすべく自転車を降りた。



 乙姫は軽かった。簡単に片手で引き起こせてしまい、女の子ってみんなこんなに軽いのかなと、翔子と比べた一騎が考えてしまうほどに。
 荷台に乗って、乙姫は再びサドルにまたがった一騎にしがみついてきた。驚いたが、後ろに乗る人間にはハンドルという名の支えはない。自転車を運転する人間に全てを委ねるしかないのだと気付き、一騎は納得した。同時に、わけの分からない罪悪感に胸を痛ませながら。
 自転車走らせながら、一騎は背に感じる体温を頼りなく感じる。そんなことはないと分かっているのに。

「一騎」

 乙姫が、聞こえなくても構わないと言いたげなほどに小さな声で、一騎を呼ぶ。体勢上、密着しているので聞こえてしまったのだが。

「一騎は、白が似合うね」

 囁くような、一騎は覚えていないが、母が我が子を褒めるような声だった。
 ――白が似合うね。それってどういうことだ。とは、聞けなかった。それは、少女がほんのすこしだけ、秘密を分けてくれた甘さに満ちていたから。
 だから一騎は無言で、聞こえなかった振りをしてペダルを漕ぎ続けた。乙姫が指定した、アルヴィスへ続く通路を出現させるための公衆電話の近くで、皆城総士の姿を見るまでは。
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