――島を出て、そして戻った。真壁一騎は、竜宮島へ帰ってきた。
 島を出ても、竜宮島は一騎が帰るべき場所だった。竜宮島以外が故郷になることも、竜宮島以外を帰る場所にしたいとも、一騎は思わなかった。思えなかった。

 ただ、竜宮島にいては見ることが出来なかったであろうたくさんの風景を胸に抱えた時、一騎は、――これを翔子にも見せてやらなければいけない。そう、強く思った。空に消えた、儚く強かった少女。
 そして、その景色を見て、何を感じたのか。それを他の誰でもない、皆城総士に伝えなければいけないと。

 ――帰らないと。

 自ら出た島に、帰りたいと願った。皆城総士と、まだこの手足が動く内に、言葉を交わさねばいけない、と。





 一騎は、自分の目の前でぴかぴかと輝く、まさしく新品と主張したげなそれを見て、少し緊張した。白いフレームのそれは、数日前に父親である史彦に「欲しい」と珍しく一騎が自らねだったものである。同級生と比べればおそらく少ないが(同級生とも上級生とも、まさか下級生ともそんな話しはしたことがないが)特に使い道があるわけでもない小遣いで、そもそも子供の自分で買える値段なのかすら、それと無縁の身体能力を持つ一騎には分からなかったからだ。
 それ――自転車は、真壁一騎にとって未知の乗り物であった。見たことがあるか無いか程度の差はあれど、一騎にとっては≪今まで乗ったことがない≫という点において、かつてのバーンツヴェックと同等だ。
 しかも、自転車はバーンツヴェックと異なり、自分で操縦しなければならない。自身と一体化し、文字通り自分の手足のように動いてくれるファフナーとは違う。
 お前なら支えてやらなくても大丈夫だろうと史彦は軽く言ったが、サドルにまたがるだけでも、一騎は初めてファフナーに乗った時以上の居心地の悪さを感じた。頼りの父親は息子の身体能力を信じて、さっさとアルヴィスへと出勤してしまった。

「低いな……」

 当たり前だが、自転車は別に特注品でもなんでもない。史彦に連れていかれた先の店で、数台ある中から一騎が色だけ選んだ。
 自分の体に合わせて調節しなければいけないのか、と理解し、一騎は料理をする時とはとてもではないが比べられないようなぎこちない手付きでサドルを上げた。
 再びサドルにまたがり、今度こそ地面から足を離す。足の爪先はペダルへ、一騎の体は自然と倒れないようにバランスを取る。きっとこういう乗り物に乗るのは咲良の方が上手いのだろうと思うが、転ぶこともなくスムーズに自転車は動き出した。

 一漕ぎするだけで、あっという間に景色が流れていく。なるほど、これは確かに速い。同じような速さを自分で走れば体感できてしまう一騎でもそう思えた。何より、走るより労力が少なく、カゴがあるのは良い。一騎が食材を買い溜めすることはほぼないが、買い物に便利そうだった。
 ――しかし、考えてしまう。あの女の子は、翔子は、いま自分が軽々とこなしている、こんな風にペダルを漕ぎ続けるだけの運動も出来なかったのか、と。

 青い空に白い雲。天気は良いが、自転車に乗って走ると少し肌寒い。今は、本当は何月なのだろう。きっと、見えているままの季節ではないはずだ。
 風を切って走るのは気持ちいいが、ファフナーには遠く及ばない。でも、ファフナーよりずっと平和でいい。――平和な世界で、ただファフナーに乗って飛んでみたいと思った。翔子のように。

 一騎が自転車を欲しがったのも、元はといえば翔子との会話を思い出したからだった。もう果たすことが出来なくなった、意味の失われてしまった、些細な約束。

 ――自転車、買うよ。

 平和になったら、自転車を買って。毎朝、遠見がそうしていたように翔子の家まで自転車を押して行って、調子が良いようなら後ろに乗せて登校する。そんな、平和ではなくとも、学校があって、一騎がそうしようと思えば、次の日にでも叶ってしまいそうな些細な約束だった。それでも、翔子はこの上ない幸福を与えてもらったような顔をしたのだ。こんなに幸せだなんて、明日はきっとすごく不幸なことが起きるんじゃないか、とまで言いたげな表情で。
 しかし、叶わなかった。自転車の後ろに乗せるべき少女は、もういない。墓には、骨の一本すら入っていない。彼女は、空へと消えてしまった。一騎は、パイロットとしての実技訓練のことを思い出した。どこまでも高く空へ飛べそうな、白い鳥のことを。

 翔子との約束は果たされなかった。――翔子との約束も、果たされなかった、と言うべきか。一騎は、たくさんの誓いを破ってしまった。強く、自分でも強く願った、守るという誓いさえ。
 赤、黒、銀、白。と並んでいた。一騎は、迷うことなく白を選んだ。それは姿を改めた半身の色合いを思っての選択だったのかもしれないし、空へ消えた白い鳥を思ってのことだったかもしれない。
 昔からそれは、汚してしまいそうで、怖い色。壊してしまいそうで、触れ難い色だった。



 暫く自転車を走らせるが、一騎に行く宛はない。階段などは乗ったまま通行できないのが不便だな。と、どうでもいいことを考えながら海沿いを走る。乗ってみた感じ、階段の通行も出来なくはないだろうが、危険だと叱られるだろう。父親である史彦に、あとは、不器用で本当に伝わりにくい優しさと心配を向けてくる幼馴染などに。
 ――パイロットしての自覚を持て。お前の代わりはいないんだぞ。
 想像の中の総士ではあるが、素直に怪我をするなって言えばいいのに、と一騎は少し面白くなった。島を出る前の一騎ならば、フェストゥムを誰よりも多く壊す自分が使い物にならなくなったら困るのだろう。くらい卑屈に言葉を受け取っていた自覚が、今の一騎にはある。それも含めておかしくて、情けなかった。
 戦える人間も、戦えない人間も、みんなを守ろうと。否定されても、それでも生かそうと一人で戦っていた総士が、そんなことを言うはずがないのに。
 ――全能でなければ無能。ふと、そのような言葉を思い出した一騎の視線が、長く、黒い髪を捉えた。
 ――翔子。では、ない。当たり前なのだが、何故かひどく、一騎は動揺した。
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