砂浜に足を取られながら、ふと、以前自分と総士と遠見の三人で砂浜に弁当を広げたことがあったな。と、一騎は思い出した。確かあれは「皆城総士」が竜宮島に帰還し、暫くしてからの集まりであった。帰還した「皆城総士」の検査や、一騎の同化現象に対する治療が一段落した頃の出来事だ。
 真矢がはりきって作ってきてくれた弁当の中身は場に相応しいものであり、しかし何故か自分達男二人は彼女を不機嫌にさせてしまったのだと苦い記憶が甦る。味は悪くなかった。お世辞などではなく、美味しかったと言える。昔に比べれば、真矢の調理の腕はかなり上がった。喫茶楽園ではいまも一騎がメインの料理人ではあるのだが、彼女だって上手くはなったのだ。

「……前に、遠見に怒られたよな。それって、美味しくもないってことでしょ、って」

 本日の喫茶楽園での勤務は終了した。せっかくの半日休暇で家にこもっているのは勿体無い。そのようなことを考えてしまったのは、まだ体が自由に思うがままに動かせていた頃の思考の名残だ。体に残る幼い記憶を辿って、一騎は陽の下へと足を踏み出した。

 そして現在、食事のためにアルヴィスから出てきた帰りの総士と顔を合わせ、一言、二言と言葉を交わし、何をするでもなく共に浜辺を歩いている。ふらふらと、いつもとは異なり揺らぐ足運びで白い砂浜に足跡をつけながら。
 体力が、筋力が、視力が。数年前の自分が当たり前のように持っていたものが失われても、一騎の足元は揺らがなかった。約束を抱えていたから、今は約束通り島へと帰った彼がいるから。
 海と空は眩しいほどに青く、太陽は容赦なく二人を照らした。偽りの空は、偽りなどとは思えぬほどに深く、風に流れる雲は白く。その空の向こう側に本物の青色があることを、一騎も総士も知っている。真実を知ったところで、どちらの方がより良いか。など、一騎には選べるものではなかったのだが。
 いま一騎たちの瞳に映る空は、言ってしまえば「本物」ではない。しかし擬装鏡面により生み出された空は、島の大人達が守ろうとして――事実、確かに守ってきた、受け継がれてきた平和そのものだった。
 それは彼が――総士が守ろうとした、世界そのものだった。

 一騎の一歩斜め後ろの距離を保ちながら、総士はゆっくりと歩を進めている。長く伸びゆるく束ねられた明るい色の髪は、頬を撫でるくらいの風では揺れたりしない。
 総士は一騎が脈絡なく溢した言葉に少し考えるそぶりを見せたが、すぐに声を返した。

「……悪くない。と言ってしまったんだったか」
「ああ。俺は、上手くなったなって意味だったんだけど」

 ――もー、それって、おいしいくもないってことでしょ。唇を尖らせて真矢は言った。続けて、一騎くんはもちろんだけど、皆城くんもおいしい料理ばっかり食べてるから舌が肥えちゃったんだ。とも。
 遠見真矢は良くも悪くも察することの上手い少女だった。その真矢がそんな風にすねて言うのだから、そうなのかもしれない。そう考えたことを総士は覚えている。舌が肥えたと言っても、数年前まではサプリメントに頼ることもあった総士の食生活のどこに舌を肥えさせる要素があったのか。首を傾げた一騎と総士に、真矢は「一騎くんの料理、おいしいもんね」と舌足らずに聞こえる甘やかな声音で断言した。少し責めるように、悔しそうに。そして、嬉しそうに。

「お前のせいで僕も遠見も舌が肥えた」
「不味いものを出してるつもりはないけど、そこまで言われるほどのものか?」

 めずらしくからかうような音の響きにつられ、言葉とは裏腹に一騎の口から出た声には嬉しさがにじみ出ていた。総士がアルヴィスを出てわざわざ喫茶楽園にまで赴き食事を取るのは料理が美味いだけが理由ではないのだが、この手の嘘や世辞を言い慣れている人間だとは言い難い。素直に言葉を受け取り、一騎は小さく笑みを浮かべた。

 寄せては返す波の音色。静かで、外の世界では血を血で洗うような争いが起きているなどとは思えない空間。知りたい、理解したいと強く思い、庇護の外へと抜け出さなければ見えなかったであろう現実と葛藤、苦しみ。今も綺麗な故郷の外には、そういったものが渦を巻いている。どれだけ穏やかに見えようと、もう目をそらすことはできない。したくない。
 じっと海を見据え、一騎は空を見上げた。青いばかりの、作られた蒼穹を。

「……どこにいても、海は本物なんだな」

 擬装鏡面で空は覆われていても。島がどこにあろうと、見えている海はいつだって本物なのだろう?
 一騎の唐突な問い掛けにも満たない言葉に、総士は詳しく説明するために唇を薄く開いた。しかし、すぐにその唇は閉じられる。一騎の呟きは明確な説明や答えを求める声ではなく、ただ総士という人間の返事を求める声だった。

 故に、そうだ。という他者が聞けば冷たくも聞こえる言葉が、専門的な用語を押し退けて総士の唇からこぼれ落ちる。
 総士から返った言葉に一騎は空から視線を引き剥がし、瞳を総士へと向けた。多少伸びただけで、まだ重たさもない一騎の黒髪が海風で揺れる。一瞬、その表情が隠れた。土色の瞳には竜宮島が。中心には、皆城総士が映っている。
 総士へと、一騎はあの日と同じように問い掛けた。真実への扉が開かれ、優しい偽りと平和が崩れていった、あの日のように。

「――総士。俺たちは、どこにいるんだ?」

 問い掛けに、総士は唇を閉ざした。ゆっくりと一騎の言葉をかみ砕き、受け入れ消化する。あの日からずっと走り、歩き続けてきて、自分達はいまどこにいるのだろうか。命を燃やして、どこまでくることができたのだろう。
 すぐに答えを与えてくれない総士を前にしても、一騎の心は現在の竜宮島に似て穏やかなものだった。大丈夫、総士は答えてくれる。いまは、ゆっくりと言葉を交わし合う時間がある。それがあと数年のものだったとしても。それで十分だとは、まだ言えずとも。


 総士が唇を開く。噛み締めるように答えは紡がれ、誤解無く伝えられる。かつて聞いた言葉は、真実を知った今となっては重く。しかし愛しく。その答えを出した皆城総士という存在が、一騎には酷く眩しく見えた。
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