「あっ……氷菓だ」

 めずらしい。そう声をあげたティルを見て、ラズロは小さく「ひょうか」と言葉を繰り返した。ラズロの中にはその言葉をすぐに正しく理解できるだけの知識が不足しているらしい。
 冷やして凍らせて作るお菓子のことだよとティルが説明すれば、元は良い家の小間使いをしていたと自称するだけあって、ラズロは正しく言葉を理解したようだった。頷き、卵と牛乳を混ぜて作られた、優しく甘い色合いを見つめる。

「私の故郷は暑い場所だから、冷たいお菓子とはあまり縁がないんだ」

 ラズロの故郷の群島において、氷は高級品だ。別に海水を固めてしまえば氷を作る水に困ることはなかったが、飲み水を冷たく保つために使用するような真水で作られた氷は、ラズロも数えられるほどにしか見たことがない。そもそも群島では、氷の前に真水が貴重品だ。それに群島の気温では、氷を維持するために氷が必要だった。
 故郷では高級品、贅沢なお菓子。故にその氷菓は、ずいぶんと遠くに来てしまった。とラズロがつい考えてしまう代物だ。
 北へ、ただ北へ。ティルと共に歩む旅は、それ以外に特に目的はない。その内ひたすら南へ旅をすることも、ティルとラズロが長い付き合いになればあり得るだろう。
 ラズロから見れば贅沢な品が、庶民向けに露天で売られている。逆にラズロの故郷である群島では安い果物が、北へ行くほど高値で取引されていることもあった。需要と供給、輸入するための手間。軍主をしていた頃にラズロも多少の交易には手を出していたので、理由は理解できる。

「せっかくだから食べようラズロ、奢る」
「えっ、そんな、悪いよ」
「僕がラズロに食べさせたくて、奢りたいから奢るんだ。それとも、食べたくない?」
「……興味は、ある。食べたことがないわけでは、ないけれど」

 ラズロはその氷菓を一度、幼少期のスノウが食べている姿を見たことがある。見たことがある、というよりも、病床のスノウに食べさせたというべきか。
 たしかその年は群島に住む者達すら暑さをつらいと感じた年で、体調を崩したスノウのためにと用意されたのだ。
 群島の暑さにすぐに溶けてしまいそうなそれを、スノウの口に運んでやった。スノウは白い肌をいつもより赤く染めていて、しかしその冷たい菓子を食べて、おいしいおいしいと頬をゆるませていた。

 ――ラズロも一口食べてごらんよ、甘くて冷たくておいしいよ。

 まだ舌足らずで穏やかな声は、もう正確には思い出せないけれど。僕が許すから大丈夫だよと言われて、ほんのすこし、一口だけ食べたそれは、とんでもなく美味しいものだったと記憶している。
 味は正直に言ってしまえばまったく覚えていない。美味しいものだったと覚えているだけだ。何より、スノウが何かを自分に分け与え、共有してくれたことが嬉しくて。ふわふわと浮わついた、そんな感情の方ばかりが鮮明だ。

「はい、ラズロ。この辺りは土地も広いから、酪農にもあまり困らないのかな」
「これを大衆向けに作るには、牛と鶏も必要だからね」

 銀色の中に、優しい淡い色が身を置いている。器やスプーンといった食器は返却式だ。店から見える道の端へと移動して、立ったままその甘味を味わう。山奥の湧き水に似た、しかし未知の冷たさだ。舌に乗った氷菓はじわりと体温で溶け、しつこすぎない甘さを口の中に残してくれる。
 おいしい、という気持ちを伝えようと、ラズロは横目でティルを窺い見た。旅の中で何度も経験しているはずだが、未だにティルは立ち食いに慣れないようで、何となく居心地が悪そうにしている。幼少期の積み重ねはそう簡単に抜けないらしい。
 マクドールという家名を名乗る資格がない、と頑なであった態度は、リオウと名乗った一人の少年の言葉で、現状鳴りを潜めている。しかし、ティルは頑なであった頃から、名乗る資格がないと言った家名に恥じぬように日々を過ごしていた。
 もちろん何も知らないお坊ちゃんではいられないという自覚はあったようだが、出来る限り、背筋を伸ばして、恥じぬように。自身の在り方を、間違いであると誰にも言わせることのないように。
 仕草で育ちが分かるとはこのことか。と、ラズロは毎日のように再確認していた。遠い昔に失われた親友も、ティルと同じように綺麗な歩き方をしたし、仕草にも品があった。

 ティルはラズロの視線に気づくと、おいしい? と問うように首を傾げる。基本的に、食事中にティルは言葉を口で語らない。それに倣い、ラズロも二度頷くことで答える。それを見たティルは、めずらしく琥珀に似た瞳を細めて笑って見せた。そうでしょう? と語る表情だ。
 ティルとラズロは共に数年旅をしてはいるが、それほど良好な関係ではない。互いにむやみやたらと噛み付くような性格ではないが、見えない隔たりや複雑な感情というものがある。
 どうやら今のティルは機嫌が良いようだ。とラズロは思った。これも氷菓のおかげか、と心の中で感謝する。

「……僕の故郷は、雪が降るんだ。それで、雪が降ったら、その雪で氷菓の元を冷やして、固める」

 あっという間に食べ終わってしまった氷菓を惜しむように器を撫でながら、ティルは内緒話をするように囁いた。

 遊びに来たテッドと一緒にグレミオにねだって、パーンが楽しそうに、クレオが少し呆れたみたいに。雪が降ると、ちょっとした騒がしさとわがままが許してもらえて。父さんは、吹雪にはならないと良いなって心配しながら、僕とテッドが雪遊びするのを止めなかった。

 ティルが語るそれは、美しき黄金の都に住んでいた、とある家族の思い出だ。

「少し前までは、そんなもの、全部、自分で壊してしまったと思っていた。けれど、ちゃんとあの幸福な日々を、僕は覚えている。失われてなんていない」

 ひとり、ふたり、と、ティルの手から、大切な人はこぼれ落ちていった。時には、自ら命を奪うことも。崩れていく己の幸福を見て、それでもティルは、親友の死を理解するまでは、立っていられた。
 一人きりで家に残してきてしまった女性のことをティルは考える。彼女も雪を見たら、氷菓を見てはしゃぐ自分のように、家族との記憶を思い出してくれるだろうかと。

「……うん。私も、覚えているよ。もうおぼろげだけれど、それでも、うれしかったことだけは、つらかったこと以上に、ばかみたいによく覚えてる」

 空になった銀色を見て、ラズロも呟いた。彼の髪の色は、牛乳と卵を混ぜたような優しい色だと記憶しているが、実際は異なるのかもしれない。事実を確認することはもうできない。だから、曖昧な記憶に縋るしかない。
 食器を氷菓売りの男へと返却して、ティルとラズロは短い感想を男へと告げた。そして、普通の旅人のようにその場をあとにする。

「そろそろあっかい空気が恋しいな」
「……じゃあ、いつかまた南へ行こう。私が案内するよ」

 群島まで行ったら暑すぎだよ、と。一度、ラズロと共に群島を訪れたことがあるティルは、話を聞いただけで眉を寄せる。
 ティルが感じたいあたたかな空気は、要するに故郷のものなのだろうなとラズロは察していたが、ティルが故郷へ戻るには、あと数十年の時の経過が必要であろう。だから、暫くは北への旅で良いとラズロは考えていた。

 ティルの名前は、人前で気兼ねなく呼ぶことができない。その存在が人々の思い出の中に消え、歴史となるまでは。
 きっと次にティルが故郷の家へ帰るとき、そこには誰もいないのだろうけれど。

「じゃあ、まだ暫くは北への旅でいいね」

 それでも、微かにでも残されたものがあるだろう、と。過去の経験からラズロは知っていたので、立ち止まらない様にとそっとティルの背を押した。
 まだ三百年は、程遠かった。

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