例えば、何も変わったところはない、しかし幸福で平和な家庭を構成する一人であったなら。もしくは、真なる紋章とはまったく関わりなく生きて、当たり前のように死んでいくただの人間であったのならば。

 そんな世界を夢想した。故郷の海は今は遠く、仲間たちが生きた時代も過去のもの。左手に宿る伴侶と共に、静かに停滞した時を重ねていくだけの日々。己の名を呼ぶ声もなく、しかしそれなりに心地の良い生き方であった。誰とも深く関わらない、一人で歩む旅というものは。
 時には果ての見えぬ荒野を越え、時には深い森を抜ける。高く聳え立つ山も、澄んだ河も、世界は酷く美しかった。
 旅の途中、過去に思いを馳せたことは数えきれないほどにある。友人たちとの他愛ない会話。父を想うかのように慕っていた男の死。王族との、とてもではないが高貴な身分とは思えないような些細なやり取り。海賊たちとの無礼講、遠慮も何もない飲み比べ。美しく愛らしい人魚たちと海で泳いだこと。霧の船と一人の少年の行く先。誰よりも何よりも自分を上手く容赦なく使ってくれた軍師との熱のない別れ。そして、親友が呼ぶ声。他にも沢山、とてもではないが何を回想していないのか思い出しきれないほどに。
 時の流れは残酷だ、だが同時に優しい。忘れたくない記憶を忘れてしまう苦痛をもたらし、その苦痛を忘却により和らげていく。仲間たちの顔が、声が、思い出せない。しかし失った、という悲しみは薄れていた。時の止まった体だというのに、人間は上手く出来ていた。



 波の音、見慣れた(知らない)大海が目の前に広がっている。海は碧く、空は蒼い。白い雲と、うみねこの鳴き声、鼻をくすぐる潮の香り。
 久しぶりの故郷を前にして、手にしていた手紙がくしゃりと歪む。記憶の中よりずっと鮮やかで、穏やかで、力強い。私が生まれ、そして死に逝く場所。
 故郷で私の名を呼び、声をかけてくるような存在はもういない。変わってしまった町並みで迷子にもなった。微かに残る、残された面影を頼りに進んだ。
 私を記憶している者達はもういない。私は歴史の闇に葬られ、語られることなく、名を残すことを望まずに消えた命であった。

 だが私という存在は、確かにあの時代を生きていたのだ。古びて扱い方に悩むような手紙には、私という存在が何一つ間違うことなく記されていた。
 牛乳と卵を混ぜたような、優しいふわふわとした髪の色。彼の名の意味である氷の結晶を実際に見てきたし、とっくの昔に彼は兄ではなく年下になってしまったけれど、手紙にはひとつだって間違ったことは書かれていない。覚えていない優しい声音で、唯一無二の存在は静かに手紙から今の私へと語りかけてきた。
 呼ばれもしない名前など、個を表す記号など、一度は死んだはずの身には不要なものなのではないかとすら考えていた。自身の名の忘却すら可能な時の中、しかし私は未だ、自分の名を捨てられずにいる。海に還せずにいる。
 ――ラズリルに流れ着いたから―――なんだよ。私の名前は実の家族との別離そのものであり、彼との家族の証だった。



 ――もう貴方しか真実を語らない、貴方しか事実を語れない。そう言った旅の連れがいる。真っ直ぐな視線、黒い髪に琥珀色の瞳の少年。
 歴史に語られなかった存在が、今では事実を語る唯一だ。失われたもの、得たもの、痛みと嘆き、深い傷跡、降り止まない雨。罰、――そして、許しと償い。

 右手で顔を覆う。握りしめた手紙が乾いた音を立て、頬を冷たく熱い水が伝う。左手の伴侶は無愛想にぴくりとも反応はなく、ただ沈黙を守り共にある。
 喉からは嗚咽が漏れ出た。太陽は高く陽射しは眩しく、海面がきらきらと輝いて目に痛いほどだ。恐ろしくも柔らかく身を包む、私のゆりかご。
 涙は止まらず、声も震える。瞳に燃えていた青い炎は、もはや過去のもので。望んでいたかは別として、人間に与えられる命の総量から逃れる罪を犯した身には、一歩踏み出す覚悟を決めることにさえ苦痛が伴う。

 それでも、一歩、踏み出した。白い花が数本揺れる崖の上で、腹に力を入れて、歪む視界で海を見据え宣言する。

「我が名は……!」



我が名はラズロ。







「ただいま」

 龍の帰還を喜ぶ声はない。彼の深く響く声に、答えられる者はもういない。ただ、波が寄せては返す潮騒の音だけが、ラズロの帰還の声を海底へと飲み込んでいった。

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