魂に、データに刻まれた修復不可能な傷。
 そこは炎の海で周囲には瓦礫が重なり、屍で作られた道を歩くのは、誰だったのか。

 ――どうしてなのか分からない。
 レプリカも、オリジナルも、同じことを考えた。レプリカは自身の始まりに。オリジナルは終わりのその時に。
 どうしてなのか、どんなに考えても分からない。
 焼けた死体。唇はべた付き、ただ痛みや絶望を訴える悲鳴を聞く。ここは地獄だと誰かが狂った様に叫ぶ。降り注ぐ雨 は熱さに喘ぐ身を冷やし、冷やし、生きるものとしての温度を奪っていく。

 ――忘れるな。
 この世界を。この現実を。時の流れで記録も失われ、生きるもの全てが忘れたとしても。亡霊であるお前だけは忘れて はいけない。
 この叫びを。この嘆きを。この絶望を。決して忘れてはいけない。



 亡霊よ、忘れるな。お前は、確かにこの地獄で生きていた。



 そして生まれたこの体は、所詮零と一の塊でしかない。



 願いは叶えられる。聖杯に溶け込んだ今、それは当たり前のように感じられた。
 もう、思い残すことは何も無い。そんな考えで思考を埋める。深く考えてはいけない。亡霊が、無駄な願いを抱くもの ではない。

 ――無駄な願いなど無いと知っている。

 温度も感覚も無い電子の海を漂い、今は遠い光を見る。観察者である聖杯の中では、知るはずが無かった世界が見えた 。
 そう、例えば、自分が生き残る世界の可能性。
 そんなものは見たくないとすぐに次の情報に思考を移す。だってそれは正確には自分ではない。自分は、オリジナルと なった人がいたから存在することができるレプリカだ。
 聖杯の中で、情報は目で見るものでも音として聞くものでもなかった。ただ、その情報と自身が重なる。自分のことの ように感じられる。
 もうこの身は、データの塊ですらなくなってしまった。
 この身は聖杯の一部。しかも、不正なものとして削除されるようなデータ。
 自分の願いは、イコール観察者であり続けようとした聖杯の願い。そう思わなければ、そう考えなければ、逃げなけれ ば、いまにも。

 いけない。余分な願いを抱くな。こんなものは、彼女を真似て言うのならば心の贅肉だ。
 体は零と一の塊。心は亡霊。意味を持たない、運命を捻じ曲げる様な願いを抱くな。

 ――意味を持たない願いなど無いと知っている。

 痛みなど、感じるはずが無い。感じるのは死刑執行を待つ罪人の気分だけで、聖杯はまだデータ分解の意思を見せない 。
 だが、痛むのだ。死にたくないと、生きたいと、ここに来るまでに望んでいたことが身を焦がす。
 生きるものなら当たり前のような願いを、自分は抱けずにいる。

 海の底は暗く、しかし電子であるが故に温度持たない。
 何も分からず生まれ、やはり人としては死ねない。これはそもそも死と呼べるものなのだろうか。

 もう、終わりにしようか。

 自分は、何も知らず生まれた自分は、もっと強かった。何も知らなかったからこそ生にしがみ付けた。
 望みとして聖杯に注がぬ、弱い存在の、小さな意思。

 ――まだ、まだ、諦めない。

 足掻け、せめて、あの光を瞳に映しながら逝くことくらい許されてもいいはずだ。
 手を伸ばす。光に向けて。手に触れるのは膨大なデータの一部。感触も何も無い。


(――……どうも話が違うぞ)


 もがく指先に触れたデータ。慣れ親しんだその気配に息が詰まる。何故、何故ここにいるのか。
 唖然とし、溺れるように動いていた手足が、止まる。

(やれやれ、こんなことなら別に来なくてもよかったな)

 姿は見えなくとも、傍にいることが分かる。聖杯、溶け込んだデータの中で、彼の存在だけを強く感じる。

(なんて顔をしているんだ)

 顔なんて、見えないくせに。彼は自分とは違う。だがこの聖杯の中、きっと立場は同じだ。

(まったく……、絆だ何だと言いながら、私のマスターは何を見ていたのかね)

 たとえその姿が見えずとも分かるさと彼は笑う。ここに至るまで、始まりから終わりまで、サーヴァントとマスターと して、一番近くで共に戦ってきたのだから、と。
 聖杯と一体化してしまった脳に呆れたように笑う彼の姿が映る。本当だ、姿は見えずとも、彼が今どんな表情をしてい るのか分かる。
 光に手は届かない。生き延びる可能性は自分で潰している。それでも、一人でない最後は、こんなにも穏やかなものな のか。

(いいじゃないか、どうせマスターが消えれば次の出番まで退場の身だ)

 それでこんな場所まで共にくるなど、本当に彼は心配性で世話焼きで過保護だ。
 分解までの時間を有効活用しなければいけなくなった。原因は分からないが遅れているその時は、じわじわと確実に迫 っている。が、彼に伝えたいことが多すぎる。まずは、感謝よりも先に彼という存在に謝罪をしなければいけないだろう 。
 謝罪とは何か、とサーヴァントは答える。それは、彼の成り立ちを聞いたからこそしなければいけない謝罪であり、彼 への甘えであった。
 ――自分は、かつての貴方と似たような道を辿っている。

 大層な願いを聖杯に注いでおきながら、この自分だけが救えない。救うことができない。救ってはいけない。貴方が守 りたかったような存在から、自分は外れている。だから、あの笑顔を見せてくれた貴方に、謝罪を。
 亡霊は、亡霊ですらないレプリカは消えるべきなのだ。だが、しかし。
 これだけ。これだけを抱いて戦ってきた。それに込められた重さなど関係無い、命と望み、願い、希望。その全てを刈 り取った、自分の願い。

 ――消えたくない。

 叶えられない願いが唇から零れる。
 聖杯には注がれない、観測者とサーヴァントだけが知る勝者の願い。それは、ひとつの事例、ただのデータの泡となり 保管される。
 せめて、人として死ねるなら、それもまた良いのだ。だがこの身に人としての死は与えられない。
 いま、サーヴァントがどんな顔をしているのか分からない。生きたいとも、死にたくないとも言えない、こんな人間も どきの言葉に、彼は何を思うのだろう。
 ぼろりと雫が零れ落ち、不正データから生まれた意味の無いデータの塊は重く深く沈んでいく。

(――足掻いてみるか? 諦めの悪さ、頑固さは意外ではなくお前の長所だと、私は考えている)

 足掻くのならその身が朽ちる最後まで、力を貸そうと。意味の無いデータは、増えていくばかりで。
 ――消えたくない。それは、彼がいたから、彼女がいたから思うことだったのだ。
 最後まで彼が共に来てくれるならば、自分が触れることのできない外側の世界で彼女が生きていてくれるのならば、何 を恐れるというのか。

(……どうせ消える身なら、最後まで手を貸しても良いと思ったのだが、余計なお世話だったようだな)

 少し口元をゆるめただけなのに、どうして分かったのか、鋭い言葉が飛んでくる。そんなこと、ありえるはずがないと 断言した。いつも優しく、小言を添えて。中身の無いレプリカに中身を与えてくれた、一番初めの存在。
 彼が共に来てくれたことが、来てくれることが、今は――何より嬉しい。










「夢から覚める自分に未来を託す、か……私達は、そんなところでも共通点があったらしい」

 聖杯から差し出されたオリジナルのデータ。家族も、記憶も、全てを失っているであろう彼に希望を。
 体さえ動けば大丈夫だろう。体については彼女がきっと何とかしてくれる。無責任だが何とかなると言ったら何とかな るのだ。だって、彼女は何だかんだとお人よしで、データの中の彼は自分のオリジナルなのだから。

「だが決定的に違うのは、お前には後悔がない事だ、少々羨ましい話ではあるがね」

 後悔が無いのは、眠り続けるデータの中の彼は彼でしかなく、自分はここで終わるからだろう。自分に、未来を託した というわけではない。これがまったく同じ者だとしたら、少しは考えるところもあるのだが。
 ――そして何より、自分は、データの向こうの彼に全てをくれてやるつもりなどないから。

 どうしてと、知りたいと、自分が呼び出した、あんな小さな叫びに答えてくれた英霊。
 レプリカとして生まれた自分の、ひとつの個としての最後まで彼が共に来てくれるというのなら、もう他には何もいら ない。自分という存在としての死には、彼がいないと辿り着けない。

 データの分解が始まる。徐々に彼の存在が遠くなる。
 嗚呼、そうだ、最後に。絶対に言っておかなければいけないことを忘れていた。
 ――ありがとう、赤い外套を纏った無銘のサーヴァント。弱く小さな無名のマスターだった自分は、確かに貴方に救わ れた。

 無名のマスターには無銘のサーヴァント。お似合いじゃないか。

 そう言って笑った彼に、少し後悔をした。データとして分解される自分を、優しい彼はどんな気持ちで見ていたのだろ うか、と。
 次、があるなら、彼と友人になりたい。穏やかな友情の果てに、どんな結末を迎えることになろうと、今度は自分がど こまでも、地獄の先までも共にいくのだ。

 それこそ、まさに叶うことの無い願望。



 身が波に飲まれる。息が止まる。
 視界に広がるは青の海。積み重なるのは幾多の情報。

 そうして、俺は電子の海で溺死した。


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