あの雨の日の会話を要因として士郎を取り巻く環境は変化した。微かではあるが改善された義理の親子関係。それと引き換えの様に生傷が絶えない日常の中で士郎は生きる事となるが、それは士郎も望んだ事だ。
 手加減はしているのだろうが手を抜くことは無い綺礼との訓練は子供に身には厳しいものであった。しかし一年、二年と続ける内に、失われていた士郎の身体能力は、現在通う小学校の体育に問題無く参加できるようになる程までに回復した。日々治っては増える生傷に虐待を疑われるような時期もあったが、三年目を過ぎた頃からそれは言峰士郎の一部として周囲に認識されている。今では元気に同級生と喧嘩をしては大人に怒られるといった普通の子供らしい姿も見せていた。
 衛宮切嗣との関係も良好なもので士郎が切嗣の家へと泊まりに行くことも多く、切嗣が綺礼を警戒し、綺礼が切嗣のそのような反応を見て楽しんでいるのも珍しいことではない。
 冬木の大災害を境に失った場所を埋めるように、新たな日常を言峰士郎は形成していた。だが、その日常もまた一部が失われる、人の生とはそういったものだと、綺礼は言う。失われる日常の一部、それが何であるのかを告げる綺礼の表情は、士郎には表現し難いものであった。



「……また傷が増えましたねシロウ、学校での生活に問題はありませんか?」

 己が王とする男と同じ色彩を持つ少年の言葉に、士郎は靴紐を結びながら無言で頷いた。純粋な色を宿す赤の瞳に見詰められ、士郎は大丈夫だともう一度頷く。それでも心配そうに増えたばかりの頬の傷を優しく撫でられ、士郎の肩はくすぐったさに跳ねた。

「本当に大丈夫だから……、俺が選んだことだって先生にも言ってるし」
「それほど自信に満ちた瞳で答えられているのならば良いけれど。無理はしないでくださいね、コトミネは容赦が無いんですから」
「うん、ありがとうギル」

 数日分の着替えを詰めた鞄を持ち上げ、士郎は自身を大切なものとして扱ってくれる存在である少年へ礼を言う。少年は礼の言葉に頷くことで返し、忘れ物はありませんか? と黄金を思わせる金色の髪を揺らしながら士郎に問い掛けた。

「平気。大丈夫だと思う、なんて言い方はしないから」
「なら良いです。コトミネは性格はあれでもしっかりした人ですからね、シロウも良いところだけ似れば良いんです。悪い所は真似せず、そのまま真っ直ぐ生きてください」

 子供の姿でありながらどこか哀愁を漂わせ、少年は力説する。士郎も大人しく、素直に肯定を返した。
 少年と同じ色彩の王が消えてから、少年は士郎にまるで母親のように接してきた。初めその立場は少年にとって不本意なものであった。が、士郎の義理の父親である綺礼は父親らしいと言えば父親らしいのだろうが、精神面の教育では本当に、少年がまったくと言ってしまうほど役に立たない。言峰に養子として迎えられてからも士郎が目に見える歪みを生み出さずに育っているのは金色の髪に赤い瞳の人物の采配によるところが大半を占める。少年は、目の前にいる中身が空っぽの一人の子供を捨てられなかったのだ。

「あっ、そうだギル」
「はい、何ですかシロウ」

 誤魔化す事無く名前を呼ばせ、自分ではどうにもできないことがあればすぐに誰かを頼りなさいと教え込んできた。簡単に表せば、少年はその身が王となった時の姿である青年以上に純粋に士郎を好いて愛でている。野に咲く花はよいものだ、子供の精神を考えればコンクリートをぶち破って生えてくる雑草と言った方が正しいのだろうが。
 何かを思い出したと言うように名を呼んでくる士郎と視線を合わせ、少年は己の子供の話を聞く母親の心境で答えた。

「あのさ」
「いきなり怒ったりしませんからはっきり言っていいですよ」
「……ギルと同じ色の、大きい方の王様に会えたり、しないかな」

士郎の言葉に、少年は首を傾げた。

「会いたいんですか?」
「えっと、俺、いまなら言えることがあると思うんだ。……うん、その、会いたいんだと思う、会いたい」
「……士郎が教会を離れている間に帰ってきてまた居なくなったりしませんから、安心して今はエミヤさんのところへ行ってきてください。シロウが帰ってくるまでに考えておきますから」

 少年がそう言えば、士郎は花が咲くような明るさを見せた。短い時間の中であのような扱いをしておきながら、よく懐かれたものだ。と少年は考える。そして無の状態に刻まれた傷は怖いものだと眉を寄せた。
 士郎は少年と己の王の関係について何も情報を得てはいないはずだが、薄々勘付いている部分があるようだ。初めの内は少年に対しても王を前にした時と同じ態度を取っていた。その態度についてはすぐに少年が正したが、共に過ごす内に士郎の中で少年と王の繋がりは確かなものとなっているらしい。

「ありがとうギル! 行ってきます」
「行ってらっしゃいシロウ、道中気を付けて下さいね」

 小さく手を振る士郎に少年も手を振り返す。重たい音と共に扉が開かれ、眩しい太陽の光が教会内を照らした。


ひとりぼっちの王と剣-6


 微笑みを浮かべて衛宮切嗣は言峰士郎を迎えたが、その存在には生気というものが欠けていた。
 じわりと、義父の言葉が現実として士郎の精神を蝕む。また自分は何かを失うのだろうかと考えれば、それだけで人形のように動かなくなってしまう箇所があった。
 家事が出来ない切嗣に代わり士郎が夕飯を作って食卓を囲み、二人でひとつの湯船に浸かる。そして衛宮の家に泊まる時の決まり事のように士郎は和服を纏い、切嗣に寄り添った。とても月が大きく丸く、綺麗に見える夜だった。

「僕はね、正義の味方になりたかったんだ」

 ぽつりと、月を見上げながらそう衛宮切嗣は呟いた。

「……なれなかったのか?」
「うん、正義の味方になるには年齢制限があるんだ」
「そんなこと、無いと思うけど」
「そうだね、現実に潰されてしまうまで、と言うべきかな」

 月を見上げる切嗣を見上げ、士郎は静かな声で答える。淡々としているようで優しげな穏やかな声で、衛宮切嗣は己の唇から現実を吐き出す。なりたかったという正義の味方らしくない、子供には聞かせるべきではない現実を。かつて自身が、子供の頃に知ってしまった現実を。

「何かを救うという事は、何かを救わないという事なんだ。そして救ったものが引き金となって、さらに倍のものが救われない事もある」

 寄り添う子供に対してではなく、自身に言い聞かせるようにその言葉は吐き出されていた。衛宮切嗣という魔術師殺しが生きてきた道を否定するつもりは無い。しかしその道に、妥協があった事は事実なのだ。

「……士郎は、まだ教会に身を置いているだろう?」
「じいさんは、俺を助けなきゃいけない存在だと思ってる?」
「思っていた、かな。今はもう、良く分からないんだ」

 月から視線をそらし、切嗣は笑みを浮かべる。その笑みは士郎が教会の生活の中で出会った、生きることに疲れたと言う老人の笑みによく似ていた。

「僕は、僕自身が救われたかっただけなのかもしれない」

 諦めてしまったと言いながら、その人達は泣きそうな顔をして笑うのだ。士郎はその老人に向けるべき言葉を持たなかった。だが、衛宮切嗣という個に対しては伝えられることがある。彼を救える可能性のある言葉を士郎は知っている。そして士郎という子供は、人を救う「言峰」の名を与えられた存在だった。

「……あのさ、俺は自分で助かって幸せになるよ」
「……えっ?」
「それで、じいさんが助けられない人も一緒に引き上げる。これでみんな助かるだろう?」

 その故に言峰士郎は自身を縛るにも等しいその呪いを、思いを、言葉にしてしまった。しかしそれは同時に、自身の夢や希望、道というものを失っていた言峰士郎が進むべき道を得た瞬間でもあった。

「あ、でもあんまり期待しないでくれよ? そうなると俺は綺礼のことも引き上げなきゃいけないから大変なんだ。でも俺はちゃんと幸せになるから、幸せになって良いと思うから」

 それは幼い子供の酷い理想。現実を知ってしまった大人には、見ることが出来ない夢を士郎は見ている。しかし、正義の味方になり損ねた男はその言葉に惹かれた。

「……そうか……安心した」

 それは、純粋に夢を見られていたあの頃を思い出す言葉だ。

 ――ケリィはさ、どんな大人になりたいの?

 魔術の本質を理解していなかったが故に問われた、子供のような純粋な問い。照れ臭くて言葉に出来なかったその答えを、子供は迷う事の無い瞳で告げていた。
 そしてひとつ息を吸って、子供は言葉の続きを紡ぐ。

「それに俺は、もうじいさんに助けられてるんだ」

 その言葉に、驚いたように切嗣は目を見開く。士郎の瞳は真っ直ぐに、疑いなど知らぬ色で切嗣を見詰めている。

「じいさんはさ、ちゃんと、俺の正義のヒーローだったよ」

 ――まるで、僕が本物のヒーローみたいだなと、切嗣は笑う。それは士郎の見慣れた、少し眉を下げて笑う、優しい笑みだった。

「――士郎は、どんな大人になりたいんだい?」

 笑みを浮かべたまま、士郎の赤銅色の髪を撫で、男はそんなことを言う。
 士郎は自身の正義のヒーローである男の顔を見上げた。その日は本当にとても月が綺麗な夜で、男は瞳に月を映すと見惚れた様にその光を見詰めている。
 士郎が男から視線をそらせば、肩に大人にしては軽い重みが預けられた。士郎は身を硬くし、そのままで時を過ごす。士郎の答えを聞く前に、男が言葉を発することは無くなった。
 士郎は義父のように魂を送る詩を知らない。一言、おやすみなさいと呟いて男の重みを甘受する。
 士郎の日常の一部はそうしてあっさりと失われた。士郎の帰る場所は男の隣ではなかったが、その日はただ朝日が昇るまで傍に在り続けた。


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