――全てが燃えている。

 赤く染まった視界。子供は焼けた喉で喘ぎながら、力の入らない足を動かし、歩いていた。
 生きている者が居ない、死者になった者か、成り掛けの物しかそこにはいない。痛みが、嘆きが、切望が叫ばれる世界。
 共に居たはずの家族は傍に存在せず、どれだけ歩いても知った顔が見つからない。

 ――赤い視界が理解を阻む。

 赤しか見えない視界。焼けた■■に、飛び出た■■。傷付いた子供の力では、炎の海の中を進むことなど出来はしない。家族を呼ぶだけの声を出す気力も無く、やがて子供は力尽き、焼けた大地に身を任せた。

 ――空が黒く燃えている。

 子供は自分が横たわる地と比べ、随分と温度差のありそうな空を見上げた。吐き出す息は焼けた喉を熱く痛ませる。しかし、痛みなどもう子供にとって自身とは関係の無い事だった。

 自分はここで死ぬのだと、子供は理解したのだ。

 どこから湧き出るのか分からぬ悪意と炎の中に、子供は赤以外の色を見つけられずにいる。子供は、己の体も周りと同じように赤く染まる様を色の無い瞳で見詰めていた。



「――ほう、まだ生きている人間が居たか」



 悪意に満ちた世界で、唯一それに侵されぬ声が響く。

 赤い炎を切り裂くように子供の前に姿を現したのは、赤を一枚纏っただけの――王だった。姿形ではない、虚無に染まった子供の瞳にさえも、その存在は絶対的な強者として映る。例えるなら、輝く太陽、瞬く星、煌く黄金。
 顔を覗き込まれ、子供はその存在のあまりの美しさに見蕩れた。貴方のためならば全てを失っても良いとまで他者に叫ばせる事が出来るだろう、まるで呪いの様な存在感。完璧に計算され、作られたかのように整った顔立ち。子供が彼に似合うだろうと想像した通りの色をした髪は、炎の中でもさらりと揺れる。しかし、その王の瞳の色は、子供が嫌悪する赤色だった。

「ふむ……童よ、その特異な存在、この我が生かしてやらんことも無い」

 咳き込んだ子供が吐き出した物を見て、王は面白そうに口元を歪める。
 子供は蜜の色をした瞳で王の赤い瞳を見詰め、言葉を待つ。正体が何であるかは分からぬが、一度は生を手放した者に再び生への執着を抱かせるだけの魅力がその王には確かに存在する。
 王は今から情けを見せるとは思えぬような笑みを浮かべたまま、ただ子供の赤銅色の髪を撫でた。

「生きたいのならば立ち上がれ、この悪意の中、己の存在を勝ち取り我に示して見せよ」

 後は我が生かしてやろう。と、命をどういったものだと考えているのか軽い口調で王は言う。しかしやはり、全て真実だと無条件に信じさせるだけの力が、その言葉には込められていた。


――。


「綺礼、貴様はあの子供と衛宮切嗣の事をどう考える」

 扉を開けた瞬間に認識した光景。遠慮無く綺礼の部屋に入り込んでは秘蔵の酒から何から我が物顔で飲み干している存在に視線を向け、いつもの事かと言峰綺礼は顔には出さずに呆れた。まだ中身はあるが放置された物、既に空の物、床に転がるワインボトルを回収していく。そんな綺礼の姿に、ギルガメッシュは楽しそうな色が含まれた視線を向けていた。

「どういう意味だ?」

 視線に、少し笑みを含んだ声音で綺礼は答える。ギルガメッシュはソファに完全に自身の体重を預けた体勢で、綺礼の問いに笑いを返した。
 部屋に響くのは小さな笑い声。繊細な手付きでワイングラスを揺らしながら、浮かべる笑みに相応しい声でギルガメッシュは言葉を零す。

「何も持たず、何も得ず、それでも諦められずにあの男は一度は悪意に染まった地に戻ってきた」

 こんなに面白いことは滅多に無いと言う様に、歌う様に最古の王は事実だけを紡いでいく。

「いや、戻ってきた、とは相応しくないな。あの男は帰ってきたのだ」

 正義や世界平和。安穏を求めた者の行き着く先は、持った理想とは別のものが存在する世界でなければならない。正義の反対は悪ではない。正義の反対は正義であり、悪の逆も悪である。正義という概念が無ければ、悪という概念も無い。それは、考え様によっては同じものにはならないだろうか。

「あの男は全の中の一であった者には戻れぬはずの存在。だからこそ聞いているのだ綺礼、衛宮切嗣と貴様が養子にした子供の重なりをどう考える?」

 衛宮切嗣はあの炎の海を見て、何も救えず、それでも微笑めるような人間ではない。少数を切り捨て多数を掬い上げる。今までの生き方さえ、全てを否定し恨み壊し殺し悪意を撒き散らすあの世界を生き延びたとしても、衛宮切嗣という存在は何も救えなかった自身を良しとしないだろう。
 ギルガメッシュがワインを喉の奥に流しこむ音が大きく聞こえる程に、綺礼の自室には密やかな空気に満ちていた。

 テーブルの上に空のワインボトルを並べ、ギルガメッシュが贅沢に使用しているものとは別のソファに綺礼も軽く身を沈める。愉快だという感情を隠さぬ赤い瞳に見詰められ、綺礼は小さく息を吐いてから言葉を吐き出した。

「得たはずのものを失った男が、全てを焼かれた存在に何を見ているのか興味深くはある」

 綺礼の言葉を、ギルガメッシュは静かに聞いて噛み砕く。
 そうして、綺礼の笑みの形に歪んだ口元を見て、わざとらしい仕草で首を傾げながら思わせ振りにギルガメッシュは綺礼へと言葉を落とした。

「貴様は、養子にまでしておいてあの子供に直接的な興味は無いのだな」

 気付けばさらなる愉悦も得られように。新たにひとつの道を示し、ギルガメッシュはただ静かに優艶な笑みを浮かべた。


ひとりぼっちの王と剣-3


 二人分の体温とシャワーから出るお湯で暖かくなった浴室。白く染まっているが視界を遮るほどではない湯気。口元まで湯に浸かり、目の前で水面が揺れる度に士郎は身を硬くした。人間が呼吸するための器官を全て湯で覆われてしまえば、酸素を体内に取り込む方法を失ってしまうためだ。
 もしかしたら、あの義父なら水の中でも呼吸できるのかもしれない。そんな子供らしい夢に満ちた事を考えながら、士郎は大人しく湯船の中で己の王に抱え込まれていた。
 湯に覆われている場所よりも、人と接触している背の方にぬくもりを感じる。人は意外に熱を持っているのだと士郎は目を細めた。
 気まぐれに、王は士郎の髪先を指で掬う。王の指先は体だけでなく心までぬるま湯に浸かってしまいそうな甘さに満ちていた。士郎はそれを怖れるが、今の状態では指一本動かすのも怖い。そうして結局は湯船の中で小さく身を縮めて王に翻弄されている。

「ふむ……上質な髪ではないが、獅子の鬣、等と言えば聞こえは良いか」

 獅子とはライオンのことか、ライオンのタテガミなんて触ったこと無い。上機嫌な王の機嫌を損ねるような事はせず、士郎は黙って時が過ぎるのを待つ。
 王は、ギルガメッシュは士郎にとって嵐のような存在だ。抵抗など無意味と言える力で身体も精神も浚っていく。傷として、記憶として。自身の在り方を士郎へと刻み付け、赤い瞳を細めて笑う。
 男にしては白く繊細な指先が髪から離れ、まだ成長途中の幼い士郎の背を撫でる。指先は、子供の肌に不似合いな赤い痕を辿る。上から下へ、下から上へと撫でる動きにくすぐったさを感じ、士郎は思わず肩を竦めた。
 湯が派手に揺れ、士郎が慌て振り返れば赤い瞳と視線が絡む。水に濡れ、頬や首筋に張り付いてしまってる金色の髪が浴室に設置された明かりに照らされ、まるで太陽の光を通し透けているような、妙に神々しい錯覚に士郎は狼狽えた。

「何だ、まだ何もしておらぬだろう」

 何かするつもりだったのか。と士郎は叫びそうになるが、声は出ない。完全にギルガメッシュの纏う雰囲気に呑まれてしまった。
 士郎の頬に手を当てながら、どうしたのかと恐怖を抱けるほどに甘く優しい声音でギルガメッシュは問う。その声に暗示を受けたかのように、答えなければという意思が士郎を支配する。導かれ、招かれ。そして言葉として、声として。示してしまったことを、士郎は後悔した。

「かみさま、みたいだな、って」

 ぎちりと忌々しそうに奥歯を噛み締めるような、呆気に取られているような、妙な沈黙。
 士郎がギルガメッシュの変化を悟るのは早かった。すぐに謝罪の言葉を繋げようと唇を開くが、謝罪はギルガメッシュの喉の奥に消えていく。
 皮膚を裂かれ、肉を抉られ、骨を砕かれた事はあるが、唇を重ねられたことは無い。士郎はその行為がどのようなものであるかは理解していたが、込められた意図が分からずに思考が停止する。例えば、それは愛すべき家族と、好き合う男女が交わすべきものであるはずだと。純粋な子供の思考では、ギルガメッシュの口付けの理由に答えを当て嵌める事は不可能であった。
 ゆっくりと重ねられた唇は離れ、しかしとても近い距離で赤に見詰められ士郎は息を詰める。その瞬間に何か間違いを起こせば、自分達が向き合い浸かっている湯が赤く染まるだろう事は無意識に理解していた。
 形の良い唇が動く。その動きを、士郎は視覚で追った。

 ――次は無いぞ。言峰士郎。

 甘く、冷たい。絶対的な力の込められた王の声。
 士郎が言葉を理解する前に、ギルガメッシュは子供の薄い肩に思い切り噛み付いた。

「……貴様が学び舎を得るのは三日後だ、問題はあるまい」

 士郎の肩に赤い歯形を残し、そこに舌を這わせながら王は言う。
 自分は失敗した。言峰士郎として、剣として間違いを犯した。それだけを、士郎は自身のものとして記憶に刻み付けた。他に必要なことは、全て目の前の王に与えられる。
 縋るものを求める小さな手が掴めるものは存在しない。士郎は震える瞼を下ろし、ただ自身が食い千切られる音を聞いた。


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テーマ「人外ファンタジー」
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