崖の上から海に花を投げる。今では瓦礫の山など影もないイルヤで育った、美しく鮮やかな赤い花。それが青の中で揺れる。
 波は穏やかで耳に心地よい音を届け、当たり前だが、海だけは昔とまったく変わっていなかった。

「……ばーか。何が奇跡を見せてあげる、だよ」

 ひとりぼっちは寂しいよと言った心優しい青年を、どこに帰してやれば良いのか分からなかった。かといって、再び群島を訪れるのには勇気が必要だった。
 己の生の長さを思えば一瞬、一瞬であったからこそ、その輝きは記憶に鮮やかで。もう、声どころか顔も曖昧だというのに。彼の庇護下に戻ってくるまで、時間がかかった。

「らずろらずろラズロ……海みたいな青い目で濡れた砂浜みたいな髪の色で……どうしようもなく、強かった」

 真なる紋章が人間に影響され在り方を変えるなど、聞いたことも見たこともなかった。彼は死んだ。だが確かに、絶望に押し潰されてしまいそうで、立ち止まってしまった存在を、再び歩き出させるに足る輝きを見せた。奇跡を、見せた。
 もう共にあの船に乗った者達は、一部を除き生きてはいないだろう。導きの星でありただの少年であった彼の言葉を借りるのならば、皆、海へと還ったのだ。

「俺の帰る場所は海じゃないし、こいつの帰る場所もきっと海じゃないんだろうけど、他に頼る先も思い付く場所もなかったんだ」

 だからお前が受け止めてくれと、再び波間へ花を投げる。今度は可憐な白い花を、翡翠の耳飾りと共に。
 花はすぐに波がさらっていく。耳飾りは、海に投げ込んだ時点で視線では追えなくなっていた。

「……忘れてない、忘れない」

 鮮烈なまでの青の輝きは確かに胸の内にある。頼られていたのに、庇護される立場であったあの不思議な関係とやり取りも忘れてはいない。見せてくれた希望も、掬い上げてくれた手も、人のあたたかさも、生と死も。

「大丈夫だよラズロ、ちゃんと、一人で歩ける」

 母なる海、と群島の人々は言うが、海は相変わらず血の臭いを思い出す事もありそれほど好きなものではなかった。だが、あの青が沈み溶けた場所だと思えばもう怖くはない。
 大人になりきれていない体に様々な、青く燃え盛る炎のような想いを抱えていたあの存在すらも穏やかに受け入れた母なる海。そして今は、己の天魁の星そのもの。

「またな」

 再び群島の地を踏むのは百年後か二百年後か。もう二度と訪れることはないかもしれない。
 だが彼には――ラズロには、再び出会う事になるだろう。太陽の光を受けて輝く眩しい水面、底の見えない深い青。

 ――海の雫の一滴となった、あの星には。

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