「ラズロ」

 聞き慣れたと思っていた声が、今はどうにも他人のもののように聞こえる。自身の名を呼ぶ声にラズロは振り返り、そして自分と対峙する存在がスノウであった事に安堵した。自分はまだこの声を、拙く不器用に自分を掬い上げた声を忘れるまで落ちてはいない。

「……いよいよだね」

 ラズロと視線を合わせ、スノウはそう言った。
 我等に勝利を。その言葉は重たくラズロに圧し掛かり、そして軍主と船に乗る全ての人々を奮い立たせた。
 力強いあの言葉は、はたして本当に自分の喉から出た言葉なのかと、ラズロは夢心地で。スノウの言葉を聞いてやっと理解する。

「……うん」
「えっと……あの、ラズロ」

 スノウの前で、ラズロは上手く自分を偽れない。軍主になれない。テッドの前では弱くとも、完璧な軍主、リーダーで在れるのとは逆だ。スノウに対する甘えや妬み、様々なものが混ざってただの「ラズロ」になってしまう。
 ラズロは、失敗した、と思った。スノウの瞳が、とても澄んでいて真っ直ぐなものであったから。優しい同胞の手を離したばかりであったのも原因のひとつかもしれない。きっと、今の彼に対しては、己も真っ直ぐ向き合って話すべきだった。ラズロは幼い日を思い、奥歯を噛み締めた。昔はもっと、純粋にスノウと会話出来たはずなのに、と。
 友達になろうとスノウは言った。まだ自分達の身分の違いも分からず、身寄りのないラズロを救わなければ、遊び友達が欲しい。そんな感情の込められた声音で。
 伸ばされた手は柔らかく、苦労など知らぬだろう傷ひとつないもので。そして、とてもあたたかかった。
 成長して、スノウは己の立場を知った。それに伴いラズロも真っ直ぐとスノウへ向き合えなくなった。命すら捧げられた相手だというのに、何故正面から向き合うことすら忘れていたのか。欲しいなら、求めるなら、相応の努力が必要だというのに。小間使いという立場に、友人というスノウから与えられる立場に、ラズロは甘んじているところがあったのだ。
 しかし、今ここでその甘えを見せるのも、認めるのも、ラズロは許されないと思った。改めてスノウと友人として並ぶには、ラズロは他のものを抱えすぎた。
 軍主としての顔が崩れる。だが、それではいけないのだ。もうラズロは、スノウと二人だけでは居られなかった。
 始まりはいつからだったのか、そして終わりはいつなのか。
 既に、それは分からなくなっていた。

「……僕の力の全てを、君に預ける」

 何かを決心したような、力強い声だった。それはかつて、ラズロが追いかけていた背を持つ青年の声だ。どこまでも眩しく、そして妬ましかった輝きだ。

「遅くなって、ごめん。認めることも、君に並び立つ覚悟決めることも、遅れてごめん」
「……スノウ」
「僕は、君と騎士団で並び立っていた頃が、きっと僕たちの一番だと思っていたんだ。だけど……もう、それだけじゃ、いけないんだよね」
「スノウ、俺は、」

 自分も君に並び立つ努力をしなかったのだと、喉元で絡んだ言葉は出てこない。いつの間にか、それはお互い様だと笑い合えない深い溝が出来ていた。

「僕は、君の隣に立ちたいんだ。もう一度、君の隣に」

 すっ、と。一息、背筋を伸ばして。その瞳は穢れを知らない、純粋なものであるはずだった。

「……まあ、今の僕じゃあまり力にはなれないかな。でも、これだけは言っておきたかったんだ」

 いつまでも、二人は子供ではいられなかった。

「……それじゃ、おやすみ」
「待って」

 踵を返すスノウを咄嗟に呼び止め、自分は何をしているのだろうかとラズロは思わず舌打ちした。不思議そうな顔をしたスノウが、逆らうなどという言葉を知らぬようにラズロの声を待っている。

「どうしたんだい、ラズロ」

 こういったところは昔のままなのが、さらに憎らしい。スノウの純粋な問い掛けは自然と己の言葉を引き出す呪文だと、ラズロは少し悔しくなった。だからこそ、今も想いを吐き出すことができたのだが。

「……今すぐエレノアさんのところへ行って、海戦について教わって、合格をもぎ取ってきて」
「……? ラズロ、いったい何を言って」
「君に、この船を任せたいんだ。明日は最前線で戦いたい」

 紋章砲の撃ち合いが基本の海戦であろうと、白兵戦も重要だ。ラズロはずっと、その最前線で戦い、船を守りたいと考えていた。しかし、本拠地船だけは自分以外の誰にも船長を任せられず、常にブリッジで指示を飛ばしていたのだ。それはある意味でラズロの意地であり、人に頼れない、信用しきれないという悪い癖でもあった。

「でもラズロ、僕は、」
「預けてよ」
「……ラズロ……」
「俺の隣に立って。今度はちゃんと、もう、間違えたりしないから」

 隣では、いけないのだと。解っている。今のラズロでは、スノウの隣には並べない。自分でお飾りだと言っていたのに、今ではどうしようもなくそれが重い。

「……分かった」

 それは自分の我儘であると、ラズロには分かっていた。スノウも、それが見たこともなかったラズロの我儘であると分かっていた。
 ――だが、スノウは頷いた。俯き、本音を吐き出すラズロと一定の距離を保って、それでも分かったと彼は言ったのだ。

「分かった。……ラズロ、君の帰る場所は、僕が守るから。もう逃げない、もう失わせたりしないから」

 だから、僕をもう一度信じて欲しい。スノウは幼い頃、ラズロに「友達になろう」と告げたのと同じ声音でそう言った。
 喉が震える、舌が乾く。左手に宿る紋章が、忘れるなと鈍く疼いた気がした。だが、もう戻れない。ただ一人のために剣を握り、命まで捧げ生きてきた。そして最後は海へ還るのだと、決めていたというのに。
 ラズロは、自ら願い、与えられ、望まれ、そうして得た居場所を、もう捨てることなどできなかった。

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