大丈夫? 雨を嫌うティルを知るラズロはティルにそう問いかけた。大丈夫ではないのだと理解した上でラズロは問う、ティルが「大丈夫」だと答えられるように。自身を「あの日」からのティル・マクドールに保てるように。

 ラズロは世話焼きだが必要以上にティルに干渉しないようにしているらしく、ティルが他人の手は不要だと思っている分野では手を出してこない。ティルは言ってしまえば全ての事柄で他人の手は不要だと思っている節もあるが、「君に食事は作らせないよ」と自分が我慢できないからという理由でラズロが手を出してくる事は好ましく思っているため、必然的に家庭的なことはラズロ任せになっている。あれは普段は文句も甘えも無いラズロなりの我儘であり、また確かに自分が調理などをするよりもラズロに任せた方が目に見えて上手くいくと分かっているからだ。
 ただのティルの傍に在った青年。本来彼が一番に優先し仕えるべきはずのティルの父よりも、誰よりも何よりもティルを優先し忠実であった従者の彼と比べ事務的に、しかし重ねて見るな、という方が理不尽なほどに、ラズロの世話焼きは彼に似たあたたかさのようなものをティルに伝えてくる。
 ティルとラズロの関係は良好とは言えず、しかし悪いとも言えない。それなのに食卓を二人で囲めば、懐かしい、二度と戻れぬあの家をティルは思い出す。自分が踏み躙り、殺してしまったあのぬくもりを思い出してしまうのだ。

 普段通りの、ティル・マクドールに対するラズロだったら耐えられた。だが、数年の間に芽生えてしまった情のようなものが、ラズロを「ただの」ティルに触れさせてしまった。
 「あの日」の前の、明確に恐れるものなど何もなかった少年に。



「ごめんね」
「……僕、ラズロのそうやってすぐ謝るところ嫌い」
「うん、それは知っているのだけど」

 他に言葉がなくて、と。子供の癇癪にここまで真面目に、声を弱らせて付き合って、人が良い。グレミオもそうだった。ただ彼はティルを叱ったし、ラズロよりもずっと言葉を重ね、理解を求めた。少なくとも、声は弱らせたがここまでどうしたら良いのかさっぱり分からないという雰囲気は漂わせていなかった。
 きっといま身を包んでいる若葉色のマントを脱いで振り返れば、そこにはめずらしい表情で困り果てたラズロがいるのだろうなと考えると振り返りたくなるが、ティルはぎゅっと右手でマントを握り締めて耐えた。拗ねた子供が素直に甘えを見せてはならないのだ。拗ねて、興味を引きたがるという時点で立派な甘えなのだから、これ以上素直に甘えてはいけない。

「……それにね、今回は本当に、つい癖で謝っているわけではないんだ」

 ティルはラズロの声を背で聞く。迷惑をかけて、困らせているなあという自覚はあった。また、体はどうであれ実年齢は二十歳を過ぎているのに何をやっているのかという恥ずかしさもあった。それでも振り返って、僕の方こそ妙な事をしてごめんとは謝れない。ラズロが、あのラズロが本当にめずらしく弱音のような本音を吐いているのだ。一言も聞き漏らすものかと耳をすませる。ラズロはティルの声と言葉には常に自信があると言っていたが、ティルだってラズロの本当に自信の無さそうな声など聞いたことがなかった。

「ごめん、伝える努力を、私は怠っていた。諦め癖なんてものがあってごめん、君はずっと誠実な態度で私と接してくれていたのに」
「……子供の駄々に本気になりすぎ」
「でも、君は私に伝え、理解しようとしてくれていたのに、私は伝えようとも理解しようともしてなかったんだ。あえて言うなら、ただ、見ていただけで。だからいま君が拗ねてしまって、本当にどうしたらいいのか分からないんだよ」

 何故君が気分を害してしまったのか分からないんだ。と言葉が重なる。

「ああ、でも気分を害させるかもしれないから、と私が黙ることも君は嫌いだって事は知ってる」
「うん、黙ってほしくない。言いたいことがあるなら、言ってほしい」
「……君はいつも、黙ったりはしなかったから。絶対に、私に伝えてくれていたから。だから、いま君がそんな拗ね方をしてしまって、訳が分からなくなってる。ごめん」
「僕だって何も言わずに黙って、心の中にしまっておくことはあるよ」

 例えば、こんな風に拗ねてしまう過去の自分。もう縋る先は無いと思いながら、共に歩く同胞に泣き付きたくなる瞬間。まだラズロほどではないとはいえ、ティルだって多くを飲み込んできた。
 唯一無二の親友を失い、自分で立ち直れないと自覚するほどに打ちのめされたあの時。ティルが弱音らしい弱音を吐き出したのはあの時だけだ、あとはただ背筋を伸ばし、弱音さえも強く発した。
 ラズロは自分を過大評価している、とティルは考えている。悪くはないが、少し困る。その過大な評価に見合う人間になりたいと思ってしまうから。それはティルが純粋に尊敬する同胞、旅の道連れがどうしようもなく強い人だから、考えてしまう。
 ラズロはティルを過大評価しているが、ティルもラズロを過大評価している。しかし過大評価といっても、過大に見合うだけの事があるからこそ評価が過大にもなるのだ。

 ――君は大事に、大切な人たちを抱えている。それはとても尊い事で、捨ててほしい想いなんかじゃない。けれど、私は置いていく側の人間だったから。

 ラズロは、ティル・マクドールにそう言った。軍主としてのティルでも、二人を繋げるきっかけとなった星――テッドの親友としてのティルにでもなく、家族に、友人に置いていかれ嘆くティル・マクドールに。それは初めてラズロがティルという個人を見た瞬間であり、ティルがラズロを敬い、そして嫌う事となる決定的な出来事でもあった。

 ――だけど、貴方はおいていかれたはずだ。いま、生きているのだから。
 ――そうだね、私は置いていかれてしまったよ。抱いていた覚悟も何もかも、全て無駄になった気分だった。

 ラズロはそれまで見たこともないほど饒舌に語り、何も恐れるものがないほどに幸福だったティル・マクドールという少年へ事実を突き付けた。理不尽に、残酷に、まるで「あの日」のように。
 涙を流し嘆くことは構わない、それはとても尊い事だと言いながら。戦争という場で正当化されている行為がどういったものなのかを、ティルに抉り込むように告げる。まだ、十六を過ぎたばかりの少年に。初めは理不尽だったかもしれない、だが、お前は選び、選ばれたのだからと。
 それは反乱だった。軍主の下に集った人々は解放を謳ったが、それは反乱だったのだ。踏み潰してきた命の数は知れず、しかし、いまだ革命にはほど遠い。

 ――俺は、いつ死んでも良いと思っていたんだ。だけど、君は違うだろう?

 ラズロとティルの、決定的な違い。ティルは嘆いた、もう二度と立ち上がれないと思った。だが、死ぬつもりは一ポッチすら無いし、全てを放り出すようなこともできなかった。したくなかった。

 ――っ……貴方は、すごく自己中心的だ。
 ――そうだよ、君なんかより余程ね。

 ラズロは、全てを投げ出す事だってできる人間だった。だがきっと、それでも全てを投げ出さなかったからこそいま己と対峙しているのだと、ティルは理解した。だからラズロは強かった。

 ――ティル・マクドール。私は誰だって殺せただろうし、いつだって死ねたんだ。だけど君は、ここに至るまでに踏み潰してきた命も自分の命も捨てられない、捨てるなんて馬鹿なことはしない。君はその重たさを、私みたいな愚か者のように間違えたりしないはずだ。

 ラズロがまるで甘やかすように、懺悔をするように、しかし刺し貫くような声で言う。
 青い炎が、静かに燃えていた。


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