雨の降る音が聞こえる。





 きっかけは、あとになって考えてみればくだらないほどに些細なことだった。ただその時、ティルはどうしてもラズロと己が同じ空間に在ることを許せず、またラズロも盛大な癇癪を起こしたティルにほとほと困り果てていた。

「いやだ」

 その一言。ティルは元より頑固な性質で、ラズロもそれはよく理解しており、ティルの好ましい部分だとも考えていた。頑固、良くも悪くも真っ直ぐな在り方だが、ティルは自身が決めた事を他者に決して愚かとは言わせない。そのために文字通り血を吐くような努力だって可能な人間だ。選択が、決定が、正しいかは分からない。だが、間違いではなかった、と。
 ティルは自身が正しいとは思っていない。だが間違っているとも言わせない。背筋を伸ばし、琥珀の色をした真っ直ぐな瞳で先を見据え、品と威厳が違和感なく混ざり合った声音で宣言する。まるで、何一つ不安も迷いもないと言いたげに、自信に満ちた音で。
 幼い頃より人に従事する事を決められ、自身の全てを変える事となる転機まで誰に逆らうでもなくただ言われるがままに生きてきたラズロにとって、そんなティルの姿は眩しく、そして好ましいものであった。ティルは曖昧に人の下で生きてきた自分のような人間に、見たこともないような輝きを見せて従わせる力がある存在だとラズロは理解していた。
 なので、今回のティルの言動にはラズロも少し驚いた。それなりの、少なくとも数年の付き合いではあるし、ティルは基本的にお坊っちゃん気質であるということも、ラズロはきちんと理解していたのだ。いや、今となっては「理解していたはず」とでも表すべきなのだろうか。そう考え、ラズロは若葉色のマントにくるまって動かなくなってしまったティルを見つめながら内心頭を抱えた。

 雨が降りそうだった。旅の途中で、山の中で町はまだ遠く、運良く一軒の山小屋を見つけた。汚れた窓ガラスは無惨にも割れていて、しかしそれは自然の中で朽ちていく過程で起こった現象であり、野盗などの仕業ではないようであったし、雨を凌ぐのには十分な造りの小屋だった。中は簡素なもので家具などはなく、使えるかも分からない暖炉が鎮座しているだけの空間。土埃は気になったが旅をする立場で文句を言えるわけがない。

 ラズロは正直に言えば、何故ティルが気分を害して黙り込んでしまったのか分からない。ティルの行動は無茶に見えることはあっても必ず一本しっかりと芯が通っている、他者から見れば無茶でも、ティルから見れば勝機のある行動なのだ。そのため、本当にただの子供の癇癪のように駄々をこねて背を向けてしまった存在をどうしたら良いのか、前例が無さすぎてラズロにはまったく分からないのだ。

「やだよ」

 ラズロがどうしようかと考えあぐねていると、小さな言葉がティルからこぼれ落ちる。先程よりも幼さの増した言い方に、ラズロは現実でも眉を下げて困ってしまった。
 ラズロもここまできたなら分かっていた。ティルのそれは、本当にただの癇癪、子供が拗ねてしまっているのと同じだけなのだと。その行動に至るまでには言葉では表しきれない複雑な想いがあったことだろう、だが結果的にそれはただの拗ねた子供だった。そしてラズロはティルと共に旅をして数年目にしてやっと、自分はティル・マクドールという存在に一種の幻想を抱いている事を深く理解し受け入れた。
 ラズロの知る「お坊っちゃん」は今のティルのような拗ね方はしなかった。雪の名を持つ彼は成長してからだって嫌なこと受け入れ難いことがあればそれとなくラズロに洩らしていた。我慢ができないというわけではなく、純粋にあれはラズロに対してなら構わないと思っていたのだろう。それは信頼か、それとも自分の家の小間使いという立場に在ったラズロを下に見ていただけか。今となっては死人にくちなし。優しく穏やかな声音でラズロに語りかける親友はもうこの世にない。
 ティルもいつもならば、今までラズロに接してきたティルならば、雪の名の彼と同じようにラズロに言葉を落としただろう。だが現在のティルは多くを語らず、拒否の言葉を重ねるのみ。

「……まいったな、私は君に甘えすぎていたみたいだ」

 途方に暮れて、ラズロはぽつりと呟いた。普段のティルが淀み無く言葉を重ねるのとは対照的に、ラズロは本心を隠したがる傾向がある。長く生きれば生きるほど、隠すことも隠すようなことではないものも増え、結果的にラズロは口を閉ざした。昔から口下手なのは自覚があり、上手く伝えられずに人の気分を害するようなら自分が黙れば良いとラズロは考えていた。
 初めは交わす言葉も少なく、短いやり取りはあれど会話など滅多にしなかった二人の間に言葉が増えたのはティルがものを隠さず言葉を重ね、自身を伝え相手を理解しようとしたからだ。生まれ付きの、いっそ魂の清さと言っても良い強さがあったからだ。それを今、ラズロは深く意識した。貴方のことは正直に言えば嫌いだと言いながら、それでもティルは自身の考えを伝える事もラズロを理解しようとする事もやめなかった。
 強い心を持っている。それが終わりの見えない生をまだ実感できてないからだとしても、きっとティルは全てを飲み込み歩き続けられるだろうとラズロが盲信するほどに。

 きっかけは、あとになって考えてみれば本当にくだらないほどに些細なことだった。ただ「あの」ラズロが距離を測り損ね、ティルの柔らかい部分に踏み込みすぎて、ティルはラズロに最後まで残酷なほどに優しかった従者を重ね、ラズロの性格をよく理解しておきながら甘えが過ぎただけ。





 扉の向こうから雨音が聞こえる。ティルはその時、何故かあの日以降一番にそれが恐ろしかった。


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