空も海も暗い藍色。夜の海は全てを飲み込んでしまいそうな濃い闇に満ちている。波の音は嘆きの声、潮の香りは血の臭い。
 テッドは自身の体温調節の機能が狂っていることに気付いてから、人の居ない時間に外に出るようにしていた。外に出るといっても現在テッドが身を寄せているのは海上を進む大型の木造船、風を感じられる場所は限られている。
 霧の船の中ではまどろんでいられたが、今の状態で一人旅を続けるのは無理だとテッドは把握していた。
 いつか終わりがくる。テッドの思う終わりは、戦争の決着ではない。罰を抱えた一人の少年の、魂の終わりだ。出来ることならば、終わってほしくなどないが。
 少年――ラズロが倒れ、二度と目を覚まさないような事があれば。もしくはラズロが逃げ出すような事があれば、テッドは迷い無く船を降りると決めていた。
 テッドがリーダーと呼ぶのは一人だけ。他の誰も代わりになどなれない。仄暗いまどろみからテッドを掬い上げたのはラズロだ。あの鮮やかな青を、テッドは一生忘れないだろうと思う。きっと顔も声も交わした言葉も思い出せなくなる日がくるだろう。けれど止まってしまった永い時の中でどれだけ記憶が擦り切れようと、その青が鮮やかであった事は決して忘れない。その青に重ねたあの人を、忘れていないように。
 その生き方が怒りを覚えるほどに不器用で、眩しく真っ直ぐであった事は忘れない。

 夜中にこっそりと与えられている部屋を抜け出して、海風を受けてテッドは呼吸をする。海の香りは血を思い出す。母なる海、とでも言えば良いのか。まだ、海の近くでテッドは上手く呼吸が出来ない。
 見張りはいるが夜の甲板は静かなものだ。夜間の戦闘員は不用意に外に出ず、サロンで待機している。しかし、その日の甲板には先客が居た。闇の中にぼんやりと佇む白い影は少し心臓に悪い。
 その白い影が「この船のどこに身を置いて良いのか分からない」と途方に暮れているような姿はテッドも何度か見た事があった。ラズロのお気に入りと認識されているテッドがその姿を多く見るのは考えてみれば必然であったのかもしれない。ラズロはその人物の事を酷く気にしているのだ。
 ラズロが唯一、首を落とすと言った相手。そして軍主として初めて、下した決定を曲げる事となった相手。
 深夜に、墨を流したような闇をぼんやりと見詰める軍主の親友。面倒なものを見つけたなと思いながらもテッドは性根が人好きする性質だ。身投げでもされたらどうしよう、と一度考えてしまえばその考えを捨てる事は難しい。

「……アンタ、何やってるんだ。こんな夜中に」
「え……?」

 人と関わらないようにしているテッドでも軍主と剣を交えたその人物を間違える事は無いだろうが、振り返った青年の顔を見ればそれは間違いなくあの軍主の親友だと判断できた。
 牛乳と卵で作る高級品の氷菓のような色をした柔らかそうな髪。瞼をぱちぱちと驚いたように瞬いて、纏う雰囲気は純粋そうなものだ。思えば軍主と一騎打ちをした時の物言いも、内容はどうであれ分かりやすい真っ直ぐなものであったとテッドは考える。ただそれは些か駄々をこねる子供のようでもあった。

「えっと……テッド、君?」
「知ってるのか」
「その、ラズ……リーダーが、随分と信頼しているようだから」

 ラズロ。そう名前を呼ぼうとした青年は何かを躊躇って、結局彼を軍主として表す呼び方へと改めた。テッドは何故そう思ったのか、と正確な理由を把握する前に、青年のそのような態度を気に入らないと思う。

「アンタ、だから駄目なんだよ。あいつを軍主として、リーダーとして扱うにはあいつと距離が近すぎる」
「……でも、僕は」
「あいつはここじゃいつもいい顔して笑ってるけど、望まれない限りは何も与えない残酷な奴だよ。アンタ、どうしたいんだ?」

 ラズロが軍主ではなくラズロとして、青年を――スノウを気にする事が増えた。今までも、テッドにはラズロという人間の大部分を構成する存在してラズロ自身から語られた人物。ラズロの存在理由であった、全てであった存在。
 そのような存在がラズロの事を「リーダー」と呼んだ事実が、テッドは何故か許せなかった。

「……俺にすら、あいつは強要しなかった」

 テッドの呟きに、スノウは意味が分からないというような顔をした。
 テッドはふと、自身が軍主のお気に入り、と呼ばれる原因となったであろうやりとりを思い出す。いっそのことこのまま海に帰りたいとでも言いたげに、しかしどこか拗ねた子供のような雰囲気を纏い海面を漂っていたラズロの姿を思い出す。
 海と血の臭いが混ざり合って吐き気がした。何よりも信頼している二振りの剣さえ砂浜へと投げ出して、ラズロはテッドに言ったのだ。――テッドは、俺だけに跪いてくれる? と。
 ラズロは確かにテッドよりも上の立場に在る。しかしそれはラズロがそうと決めたのではなく、テッドがそうであると決めたことだった。
 ――あの場で、全ての決定権はラズロではなく、テッドにあったのだ。

 ラズロは根本的に頼まれたこと、託されたことを放棄しない。放棄できない。それは生まれや育ちが要因の強迫観念のようにも見える。
 ラズロは基本的に誰にも逆らわない。感情は見え隠れするというのに、逆らうための労力を有していないのではないかと思うくらいに従順だ。
 まだほんの数ヵ月ではあるが、軍主ではなく、一人の人間としてのラズロを見てきたテッドのラズロに対する印象は、良くも悪くも自主性がなく、そのわりには内心青い炎を常に燃やし続けているような子供、であった。
 そのラズロが、怒りを顕にし、逆らった。言ってしまえば、それだけ。人間としては当然とも言えたそれだけの感情の揺らぎで、テッドはラズロにとってのスノウという存在の大きさを知ったのだ。
 ラズロにとってスノウは、自身の欲を優先し、感情をぶつけても良い相手なのだと。それまでがどうであったのかは知らないが、あの時のラズロは何よりも自身の感情を優先して、スノウへの甘えで動いていた。
 歪んでしまった友情関係。だがその始まりは、それほど悪いものではなかったように見えた。ただ親友と互いに語るには、目線が違いすぎただけ。互いに自信のなさから、同じ目線に立てなかっただけ。

「あいつが怒ったのは、選択肢を与えずに自分の感情を押し付けたのは、アンタにだけなんだ。平気ですって顔して立ってたと思えばぶっ倒れて心配かけて、それでも平気ですってまた立ち上がるあいつが、アンタにだけは遠慮も何もしなかった」
「あ……」

 軍主として立つラズロの姿をスノウはよく知らない。テッドの言葉に咄嗟に何かを言おうとして、しかし形にはならず吐息として唇からこぼれ落ちていく。
 ただじんわりと、ラズロと友人になった日を思い返す。それはスノウと、そしてラズロしか知らない大切な記憶だ。

「だからアンタも遠慮もなくぶつかっていって、渡したいものがあれば渡せば良い、って。そう言って欲しがれば良い」

 ラズロは与えない。求められなけば、与えない。だが、お前は違うだろう。と、海の暗闇の中で蜜の色をした瞳が、真っ直ぐに体を貫き、心を貫き、スノウへと語りかけていた。

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