「そういえば」
祭り用の花に溢れた路地を抜け、イルヤからオベルまでの定期船に乗ってからふと気になってティルはラズロに問い掛けた。
テッドの話と群島で思い出したのだ。親友が語った海の話を。
船の縁に寄り掛かったままラズロは微かに首を傾げる。何かと首を傾げる癖があるラズロだが、今のそれは言ってごらんという意思表示だ。
「テッドがただ一度だけ南の海の話をしてくれたことがあったんだ、どんなに強請っても二回目は無かった」
「そうなんだ」
「でもその話はよく憶えてる、それで群島にきた時にその話を訊いて回ったんだけど誰も知らなくて」
ラズロは穏やかに微笑みながら、それは群島ではなくファレナの話ではないのかなと呟く。
ティルは親友の話の内容を思い出し、ファレナはやはり少し違うと結論を出す。
「ファレナは違う、一度父に連れられて行ったことがあるけどあそこは海というよりも澄み切った水が綺麗だった」
「海に限定された話なの?」
「海原を走る巨大な木造船、明るい空と海の深い青と、海風に揺れる赤色の話」
親友がいつもの悪戯好きな子供の顔ではなく、穏やかな表情で語る物語。話し終えた後に照れくさそうに微笑んで、再び話を聞きたいと強請るティルに対し俺もよく覚えていないんだと彼は真実を語らずにいた。
「ティル?」
いま海風に揺れている色は赤ではない。混じり気の無い黒が、砂色の髪と共に揺れている。
「テッドはどれだけその景色が鮮やかなものであったか、それだけしか語らなかった」
音や匂い、色も形も。記憶は本当に曖昧だったのだろう。百五十年、三百年、長い時の中で記憶が擦り切れても、それでもその色が鮮やかであったことを忘れなかった一人の男の話。
ティルの言葉にラズロは眉を下げ、困ったような、悲しむような表情を見せた。
「……私は、テッドが何を見ていたのか知らないし理解できない、でもそんな幻想を抱かれるような人間では無かったと思う」
「それでもテッドは覚えていた、そうだな……今の、こんな風景を忘れることができなくて、友人に話してしまうくらいに貴方はテッドの瞳には鮮やかに見えたんだろう」
ティルは甲板に佇むラズロを見てそう言った。ティルから見れば海とラズロは穏やかなものだが、親友の瞳にそれはどれほど眩しいものとして映っていたのか知る術は無い。
「……テッドには、触れなくても良い絶望を与えてしまったと思っていたのだけど」
空と海の青の中で、黒を纏った男は無表情のままそう言い捨てた。海の強い風に砂色の髪がラズロの表情を隠す。
「海の匂いは血の匂いにも似ているという話をしたことがあったかな……彼は私と一番近いようで一番遠い人間だったから、甘えから嫌な事もたくさん言ったよ」
それに、何よりも。その呟きを最後に、ラズロは俯き唇を閉じた。
ティルは呟きの続きを問うような事はせず、静かにラズロの足元に腰を下ろす。ティルがラズロを見上げれば、深く暗い青が困惑の色を浮かべ揺れている。見たことも無い瞳の色に一瞬ティルは戸惑うが、過去に縛られていた存在故に故郷に居る時の方が不安定な人なのかもしれないと考えた。
黙り込んでしまった旅の連れとの会話を諦め、ティルは改めてその姿を観察することにした。そうして見比べるとラズロの瞳の色は確かに海なのだと思う。空の青でも湖の青でも無い、あの谷の水晶の青い輝きとも違う。たとえその色から離れたとしても、忘れられないものであることに納得できる。
過去にその瞳がどんな輝きを持って死の闇から親友を引き摺り出したのか。恩を返すために人を殺すような場所に居ても良いとすら思わせた人物。ティルの視線を受けて、ゆっくりと唇が再び言葉を紡いだ。
「……死を追う様な生き方をして、結局、私は死を見せてしまった、紋章に私は勝てなかった」
「……? 貴方はいま生きている」
「一度は死んだはずの身なんだ、何が起きたのかもう一度瞼が開いた時にはテッドはいなくなっていてね、本当に私はテッドの何を見ていたんだろう」
ティルのどこか不鮮明な思考が疑問を生み出す。しかしその疑問の明確な形が理解できない。違う。ただそんな感情が湧き上がる。
いつの間にか右手の紋章が熱く痛み出した理由も分からない。ティルが左手で痛みを伝える紋章を握り締める前からラズロは左手に宿る紋章を右手で押さえつけていた。

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