少年とペテン師は笑うの数ヵ月後。卒業式の日に。










「帝人先輩」
 甘い甘い、とろけるような声で少年は敬愛する者の名前を呼ぶ。
「ご卒業おめでとうございます」
「ありがとう、青葉君」
 後輩が卒業する先輩を祝う。何もおかしくはない。しかし青葉の言葉に優しくやわらかく微笑み返す帝人は誰から見ても歪んでいた。
 青葉の後ろ、帝人の目の前には一方的な暴力が存在している。
「青葉君、そろそろ」
「帝人先輩」
「嫌だよ」
「でも」
「嫌だよ、青葉君」
 この場にあってはならないような穏やかな声に倉庫の中に響いていた音がぴたりと止んだ。
 青葉が小さくあげた手にブルースクエアのメンバーは反応したように見えるが青葉が何もせずにいても音は止んだだろう。帝人が嫌だと言った、それはブルースクエアにとって大きな意味を持つ。
 帝人はにこりと笑いながら、解散、と言い放った。小さな声だったが静かな倉庫の中では十分聞こえる大きさだ。
 ブルースクエアのメンバーは帝人の言うことを聞くが、現リーダーは帝人ではない。青葉達を縛るのは青葉の手のひらに残る傷跡だ。傷跡なんて残らなかったとしても契約と帝人は青葉達を縛る。
 傷、残っちゃったね。そう言って少し悲しそうに笑った帝人の姿はトラウマのようにブルースクエア全体に刻み付けられている。傷つけたことを後悔しているようなのに、優しげなのに、優しげだからこそ、傷跡を撫でながら嬉しそうに、よかった、と笑った顔が忘れられない。
 帝人が本当に得体の知れないものだと気づいた時にはもう戻れないところまで進んでしまっていた。これで契約は永遠だねと微笑んだ帝人が何だったのか、誰にも分からない。
 帝人の異常性に前から気づいていて、おそらく今一番帝人に近い存在である折原臨也でさえ帝人の本質が何であるのか掴めずにいる。青葉はその事実が信じられなかった。少し前までは青葉と臨也に利用されるだけであろうと思われていた帝人が、今は青葉達を縛り利用し、臨也と友好関係を築き自分のテリトリーを作り出したことが信じられなかった。
 ダラーズのリーダーではなく創始者。もちろんダラーズの力はそのテリトリーには存在しない。青葉とブルースクエア、臨也を頼り存在することができ誰でも入ることができる脆い世界。
 侵すのが簡単な領域に青葉も臨也も手が出せないのはその中心である帝人に何があるか分からないからだ。平坦な道が突然底無し沼になると二人は身を持って知っている。
 青葉やブルースクエアは特に分かりやすく縛られているわけではない。むしろ帝人は好きにしていいんだよと言うようだ。ただ青葉の手のひらに残る傷跡が妙な恐怖心を抱かせる。
 痛いであろうと理解していてボールペンを突然突き刺したように、刺されば死ぬと理解していて突然刃物を突き出すかもしれない。いつも通り、優しい先輩の顔のまま手招いて。そう思わせるほど今の帝人はどこかおかしかった。狂っているわけでも、壊れたわけでもない。生まれた時からこんな人間だよと言うように。
 臨也はそんな帝人を人間として高く評価して愛し、観察するのに適切な位置として友人を選んだ。
 青葉は後輩という位置にそれなりに満足していたが臨也が友人という立場を手に入れてしまった以上満足していられない。しかし青葉が手に入れられる帝人の中の存在価値というものは臨也と比べあまりにも少なかった。そして今日、帝人の卒業により後輩という立場も失った。先輩後輩であることに間違いはないが接触は減るだろう。付き合い自体がなくなるかもしれない。
 だから決断しなくては、と青葉は帝人の言葉に従い各自帰路につく自分を呼ぶ仲間の声に先に行っててくれと返事を返す。
「帝人先輩、本当にいいんですか? このまま逃がしたら帝人先輩に危害を」
「大丈夫、ちゃんと考えてるし……いざとなったら情けないけど臨也さんに泣き付くよ」
 帝人の中の、友人である臨也の存在は大きい。帝人がブルースクエアでも自分の名前でもなく臨也の名前を出したことに青葉は歯軋りする。
 鉄骨に座ったままちらりと地面に横たわり小さな呻き声をあげる男を見ながら青葉君は帰らないの? と微笑む人に青葉は柄にもなく緊張していた。もう戻れないところまできたというのに。
「折原臨也、本当に信用できるんですか? 紀田先輩が何をされたか帝人先輩知ってるんでしょう?」
「それを君が言うの? 青葉君」
 仕方がないなと帝人は笑うが目が笑っていない。笑顔と冷たい視線を同時に同じ人間から受けて青葉は息を呑んだ。何度か体験した状況だが慣れることはない。
「僕はね、臨也さんを許せない、でも許す許さないじゃないんだよ、憎いのと愛しいのが同時に存在できるように、許せないけど臨也さんは間違わなければ凄く頼れる人なんだ」
「利用価値があるってことですか、利用できるから多少の憎さは知らない振りをするってことですか?」
「利用なんてしないよ、お願いはするけど、あと僕は常に臨也さんのこと憎く思ってるから、知らない振りなんてしない、だから僕と臨也さんは友達なんだよ」
 誰と話しているのだろう。約一年前、人畜無害な顔をしていた竜ヶ峰帝人はどこにいったのだろう。
「青葉君と臨也さんは利用価値とかじゃなくて、別の意味でまるで違うよ」
「……意味が分からないし、狂ってますよ、先輩」
「え、それは……え、そう見える?」
 ころころ変わる表情と声音。ふいに戻ってくる日常的な顔が一番気持ち悪い。
「折原臨也は、友達?」
「うん、友達」
 その立場に甘んじて、それでもいいと感じ始めているお前は愚かだと青葉は心の中で笑う。あの折原臨也がそれだけで終わるとは思ってはいないが、友達だよと微笑む帝人を見ていると、少しでも油断すれば飲み込まれるだろうにと思った。
「帝人先輩にとっての僕は何ですか」
「後輩だよ」
「部下、とか言っとかなくていいんですか? もう先輩はブルースクエアのリーダーじゃないし、今日だって僕達が先輩の言うことを聞く保障はなかった」
「でも君達は来てくれたし、それでいいよ」
 どうでもいいよと言うように。お前たちなんていなくても何とかなったよと言われたような気分だった。でもそれではいけないのだと青葉は理解している。逃げてもいいと言われている。だが今のブルースクエアは帝人無しに機能しない。
 捨てろと言っているのか、消えろと言っているのか。それとも、本当にどうでもいいのか。

「……帝人先輩、契約しませんか?」
「もうしてると思うけど」
「ブルースクエアとダラーズの創始者としての契約じゃなく、僕との契約です、僕と、帝人先輩の」
「どんな?」
「僕を裏切らないでくださいね」
 青葉の言う契約内容は契約なんて呼べない子供の口約束のようなものだった。しかし帝人はとても嬉しそうに、僕と青葉君の契約ねと頷いた。










「曖昧だね、あの子が裏切りだと感じたらその時点で契約違反じゃないか」
「裏切りませんから大丈夫ですよ」
「帝人君は寛大だね、君には分かりやすい利益がないのに」
「利益とか関係ありませんから、いいから早く食べちゃってくださいよ、片付かないじゃないですか」
「契約なのに? 片付けくらい俺がやるよ」
「仕事してください」
 頬を膨らました臨也に何歳ですか貴方、と律儀に反応しながら帝人は窓の外を眺める。臨也に視線を移し、黙ってれば綺麗なのにとぼんやりと思った。
「本当に用はないんですね」
「あえて言うなら誰かが俺の為だけに作った料理を食べたかったから、かな」
「そんなこと言うから波江さんに逃げられるんですよ、あと僕は僕の為にも作りましたから臨也さんの為だけじゃないですよ」
「んー、帝人君は友達だからいいよ、特別」
 何が、と言い捨て帝人はご馳走様でしたと臨也が手を合わせたのを確認してから食器を片付ける。
 急ぎの仕事があると言っていたのに仕事に戻る様子がない臨也に帝人が怪訝そうな目を向けると臨也はにやりと口の端を釣り上げた。よろしくない表情だと帝人はキッチンに退散する。
「帝人君機嫌良くないねー、そんなにあの子が契約持ちかけたのが嫌だった?」
「そんなわけないじゃないですか」
「だよね、半年くらい前からずっと罠を張って、やっと言い出してくれた契約だもんね、あの子が罠に気づいていたかは知らないけど」
 身軽な動きでいつもの椅子に座った臨也は携帯を手にしながらくるくると回る。回転椅子で回る姿は何度か見ているが今だに苛つく。と会話の内容もあり帝人の眉間には皺が寄った。
「約束とか、お願いじゃなくて契約なのが気に入らない?」
「……青葉君は結構好きなんですよ」
「知ってるよ、帝人君が綺麗なものを好きなのは」
 同時に非日常がその何倍も大好きだけど。そう言ってくすくすと笑う臨也を帝人は睨む。
「契約なんて言ってたら、帝人君と対等になんてなれないのにね」
「にやにやしないでください、あと急ぎの仕事はいいんですか」
「あー思い出した、それなんだけど食事は代金の代わりだったんだよね」
わけが分からないと首を傾げる帝人に、臨也は携帯を操作しながらさらさらと言葉を紡いだ。
「君の処理は最善だったけど人間は面白い生き物だからね、君が作った食事は今日の安全な宿の確保と後処理の代金だったんだ」
 帝人の脳内に地面に横たわって小さな呻き声をあげていた男の姿が浮かび上がり、視線を移せば必然的に得意げな顔をした臨也と目が合う。
「……お願いします」
「もう学校もないし好きに泊まっていきなよ、ああ、遅くなったけど卒業おめでとう」
「……ありがとうございます」
 どこか気の抜けている帝人に臨也は再び頬を膨らます。そしてひとつ息を吸って見事に美声を無駄使いしてみせた。
「もー太郎さんテンション低いですよー、これは朝までトランプルートですね!」
「貴方本当はトランプがしたかっただけでしょう」
 裏声で作られた無駄に上手い女性の声に溜息を吐きながら、トランプだけは飽きるから嫌ですよと帝人は呟いた。
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