声が出なかった。目の前にいる人が誰なのか、思考が、感情に追いつかない。
 ――また、会うようなことがあるのなら。
 決意が揺らぐことは無い。だがその時にラズロ自身を支配したのは、底の無い絶望だった。





「……拾え、それが役不足だと言うのなら、他の剣を用意する」
 痛烈な嫌味だ。軍主が何より信頼し命を預けている剣を差して、自分には役不足だなどと。そんなことを言える者は、少なくともラズロの率いる軍には一人も居ないだろう。
 鞘から抜かれ、甲板へと投げ出された剣の刀身は陽の光を受け、黒く鋭く輝いている。

「……」

 投げ出された剣を見詰めていた青年は、ゆっくりとラズロに視線を移す。
 青年は、見たこともないラズロの瞳の色に息を詰めた。
 いつも穏やかな海のような青を湛えていた瞳はそのままだが、今にも全てを飲み込んでしまいそうな深さは、青年の知らないものだ。
 嵐の前の静けさ。深海の青。

「……次に、会うようなことが、あるのなら」

 青年に投げやった物と対になる剣を鞘から引き抜き、ラズロは小さく、しかし存在感ある声で呟いた。

「君を、殺そうと決めていた。この手で、全てを断ち切ろうと決意した」

 この世への、最後の未練を。二振りの剣を扱う時とは異なる構え。しかし青年にはとても見慣れた構えだった。
 それに気付いたのは青年だけではなく、共に騎士の道を歩んでいた仲間達もじっとラズロの背を見詰める。
 ラズロと青年が親友であった頃。いま手にしているものよりも刃の長さがある剣をあの時のままの構えで握り締め、ラズロは決意に満ちた声で、いまにも溢れそうな感情の篭った叫びを上げる。

「死にたくないのならば! 生きたいのならば! その剣を取って戦い、勝ち取って見せろ!!」

 無茶だとその場に居る誰もが思った。ラズロと青年、二人を知る者は勿論、二人の因縁など何も知らない者達もそう思う。
 青年は少し前に海を漂っているところを発見され、甲板へと引き上げられたその身のままでいる。体力も気力も、どれだけ残っているのか分からない。死んでいたとしてもおかしくはない状態だったのだ。
 普段のラズロが感情だけで動くことは無いに等しい。その異常な状況に徐々に不安が広がる。
 その不安を感じ取っているラズロだが、瞳には目の前の青年しか映っていない。映らない。

「スノウ……剣を握るんだ」

 ラズロの声に導かれるように、どんな感情が込められているのか分からない表情で青年――スノウは剣を取る。
 ずしりと手に掛かる重さにスノウは眉を顰め、覚束ない動作で剣を構えた。
 瞬間、ラズロの纏う空気が一変する。
 一気にその場から踏み出したラズロは、剣を真っ直ぐスノウに向かって突き出す。手加減など無い、相手を殺そうとする動きだった。
 スノウは間一髪のところでラズロの突き出した剣を自身が握る剣と絡め横に流す。剣を流されはしたがラズロはその場に踏み止まり、鳩尾に一撃蹴りを食らわせ衝撃に身を屈めたスノウの首筋に突き刺そうと再び剣を構える。
 これは、血が飛ぶな。と完全に頭に血が上ってしまった状態だが、どこか冷静にラズロは考えた。

「ごめん」

 かつての親友の首を落とすことに対するものか。ぽつりと落としてしまった謝罪の言葉が何であるのか理解できない。
 手から力が抜ける、指先は酷く冷たい。それでもラズロは剣を握り締める。
「ッ……! ラズロ!」
「……!」
 ラズロが剣を下へと突き刺すのと同時に、自分の意思でさらに身を屈めたスノウはそのまま体を横へ捻ることで剣から逃れた。ラズロはそれを視覚ではなく感覚で理解し、身を投げ出したスノウを追撃しようと僅かに甲板に突き刺さってしまった剣を引き抜く。
 力量の差はあったかもしれないが、未熟でもあったかもしれないが、スノウも確かにラズロと同じ騎士団の一員だった。そのラズロの微かな隙を見逃すこと無く体勢を立て直し、スノウはしっかりと己の手が握り締めている剣を構えた。
 しかし、





「……何で」
「僕が、君に勝てるはずがないよ。ラズロ」
 腹の上に乗られ、首に剣を突き付けられた状態で、スノウは困ったように笑った。
 スノウは、動けなかった。動かなかった。ラズロを斬るという覚悟が自分に無いことを、いざ正面から正々堂々と剣を向け合い戦って、気付いてしまったのだ。
「僕は、何度君を殺そうとしたのかな。でも、いま気付いたんだ。この手を汚す覚悟なんて、僕には無かった」
「そんなの……」
 穏やか過ぎる表情のスノウに、ラズロの剣先が震える。言い表すことなどできない感情が湧き上がり、ラズロは顔を歪めた。
「僕は君に嫉妬していたんだ、何でもできる器用な君に。僕達の関係は歪んでいたけれど、僕は君のことをちゃんと親友だと思っていたのに」
「……ふざけるな」
 剣先だけでなく、声まで震えている。
 こんなに感情が抑えられないのは、どれだけ昔を思い出さなければいけないのか。初めてとさえ言える感情の爆発に、いつも陰で生きてきたラズロが耐えられるわけもなく。簡単に、その想いは唇から言葉として滑り落ちる。
「……俺は、俺も、……君に嫉妬していた。生きることに苦労しない、家族が居て、汚れていない、恵まれた君に!」
「ラズロ……」
「君が俺に嫉妬しているのは知っていた。それに気付いたとき、優越感を感じたんだ。汚いだろう、君のような純粋な嫉妬ではないよ。俺は、君を親友と呼びながら、君よりも優れた自分というものに縋って、どこか君を貶めていたんだ」
「……いつから、僕達の道は違ってしまったんだろうね」
 スノウは俯いてしまったラズロの頬に手を伸ばし、そっと触れる。拒絶されないことに安堵し、その頬を撫でた。
「……? ラズロ……?」
 頬を撫でる指先に、ありえないと思っていたものが伝わり、スノウは微かに目を見開きラズロを見る。
 震える声も剣先も、俯いた顔もそのままに、ラズロは感情と想い全てを込めるかのようにその言葉を吐き出した。
「……でも! でも、君のために死んでいいと思えたことも! 君を親友だと呼んだことも! ……全部、嘘じゃないんだ、……本当なんだよ」
 勢い良く上げられた顔。その頬に伝うものを見て、今度こそ本当にスノウは目を見開き驚いた。
 透明なそれを指で拭ってやると大きな青い瞳はさらに濡れてぽろぽろと涙を零す。そんな姿は、長い付き合いの中で一度も見たことが無かった。
 遠い昔。親友ではなく、弟のように可愛がっていたことも、あったというのに。

「君が、そんなに怒っている姿も、悲しんでいる姿も、初めて見た」
 唖然としたスノウの気の抜けるような言葉に、ラズロは小さく笑い声をあげた。
 そして静かにスノウの首筋に突き付けていた剣を下ろし、すっと息を吸っていつも通り、スノウが見慣れた困ったような笑みを見せた。
「ラズロ……僕を殺さなくて、いいのかい?」
「スノウには、勝てないよ。君を殺す覚悟なんて、俺ができるはずが無かったんだ」
「ラズロ、僕は自分の弱さを認めるしかない。分かってる、分かっていたんだ」
「うん」
 涙を流したまま微笑むラズロを見て、スノウは不覚にも自分まで泣きそうになる。
 ここで泣くことは許されない、だがぐっと奥歯を噛み締めても目の奥は熱い。しかし、これだけは言わなければいけないと口を開く。
「……ラズロ……ありがとう」
 零れ落ちるように伝えられた言葉は、それでも確かに、遠い昔においてきてしまった友人の頬を濡らした。

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