「それでは、そのように」
「本当にこれでいいのかい? 相手がどんな手でくるのか分からない、それを読むのが軍師だが……あたしは、勝つためなら手段を選ばないよ」
「ええ、この紋章を策に入れてくださって構いません」
「それは、最終手段だ」
「でも覚悟をしておけということは、エレノアさんの読みではこの紋章を使うようなことがあるということでしょう?」
ふわりと微笑んだラズロに、エレノアは眉一つ動かさない。それでいいと、ラズロは思う。自分のような人間の軍師はそうでなくてはならない。
簡単に切り捨てられなければ困るのだ。厄介な紋章を宿した人間を、朽ちるだけの人間を、軍主としてしまったこの軍を動かすには。
「キカさんも、よろしくお願いします」
「ああ、では、後ほど」
ラズロが命を投げ出すと言っても、誰も顔を歪めない空間。それがとても心地いい。軍主として扱われなければ、軍主を演じることすらできない。
瞼を下ろし、すっと息を吸う。自分を捨てる。考えるのは、勝利だけ。
「分かってるね、失敗は許されない」
そうして瞼を上げれば、ラズロは軍主になれた。
軍主の突然の呼び出しはいつものことだ。いつものこと、と思える程度にテッドは船の生活に馴染んでいた。
えれべーたーという箱の乗り物は便利だが、少しの時間とはいえ他の人間と密室に閉じ込められる状況を避けたいテッドは利用を控えている。そのため第四甲板から階段を使い軍主の部屋を訪ねるわけだが、その面倒に文句を言えるくらいにはラズロとも打ち解けていた。
以前、ラズロに最近気を抜きすぎだと言ったが、感情方面で気を抜いているのはテッドも同じだった。
やけに自分を気にかけ付き纏ってくる青年に右手に宿る死神の正体を教えてしまったのは、改めて考えれば馬鹿なことだと思う。そんなこと、気にしないよ。と笑った青年に傷つくのは、自分なのだ。
いつか、殺してしまう日がくる。それでもいいと言ってくれる人がいなくなった時、絶望するのは自分だと分かっているのに。
相手があいつだから、と自分にもラズロにも甘い顔をするのは良くないと頭では理解している。人に近づいてはいけない、誰かに心を奪われてはいけない。しかし、長い間一人で生きてきた心が理解しない。
誰に向けるでもなく舌打ちをしながらノックも無しに扉を開く。それなりに派手な音がしたが何の反応も無く、ラズロは書類に視線を落としたままだった。
「……」
「……、まあ、その、扉を閉めて、座ったらどう?」
「……言われなくても」
扉は静かに閉めたが、テッドは遠慮無くどかりとベッドに腰掛ける。それに苦笑を浮かべたラズロは少し待っていてと断ってから仕事に戻った。
暫くの間、部屋にはかりかりと羽ペンが紙を引っかく音だけが響く。基本仕事の邪魔はしない主義だが、いつまでもラズロを眺めているわけにもいかずふとラズロの気が弛んだ瞬間にテッドはそれで? と問い掛けた。
「あ、……ああ、テッドにも、覚悟をしておいてもらわないとな、と」
「覚悟?」
「この船が、どこに向かっていて、何をするのか理解しているだろう?」
オベル王国の奪還。テッドが小さく呟いた声を拾ったラズロは真剣な表情で頷き、言葉を続ける。
「何があるかわからない。被害を最小限に止めるために、この紋章を使うかもしれない」
テッドは罰の紋章の真の力を見たことが無い。それがどれだけの力を持っているのか分からないが、真の紋章というだけで桁違いの力を秘めていることだけは分かる。
罰の紋章は宿主を喰い潰し近くにいる人間に寄生して、次の宿主とする。覚悟とは、そういうことだろう。
「俺が灰になるようなことがあっては困るんだ。誰かに、これを継承させるなんてこと、絶対にあってはならない」
「……お前は俺に何をしてほしいんだ?」
「俺が罰の紋章を使った後、誰も俺に近づけさせないでくれ」
「お前が灰になるようだったら?」
「ならない」
強い声に、強い瞳。軍主の顔によく似た、自分のためだけの表情。その顔に弱いのだと言っていたのは、騎士団からの付き合いだという者達だったか。
「近づけさせないのに、絶対だと言い切るのか?」
「絶対だとは言えないから頼むんだよ」
「……」
するりと喉を滑り出そうだった言葉をテッドは飲み込む。いつか、機会があるなら聞いてみたいことではあるが今聞くことではない。今伝えることではない。
鮮やかな青が、あの重たく冷たい霧を切り裂いた青に弱いのは彼等だけではないのだと理解しながら、テッドはその考えを思考の底に沈めた。
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