何も知らない、見えない人間が今の七代を見たならば、誰もが何をしているのかと思うだろう。
 少し腰を前に折った体勢で胸の辺りにサッカーボール、バレーボールといったものを抱えるかのように腕を広げ、何かに噛み付くかのように口を開いている。
 実際、その認識は正しい。ただ抱えているのはボールではなく頭で、正確には抱えているのではなく首に手を回している。
 噛み付く、に関しては何も間違っておらず。七代は押さえ込んだ頭に生える獣の耳にやわらかく噛み付いていた。
 傍から見れば七代が一人妙なことをしているようにしか瞳には映らないのだろうが、七代の眼には確かにその姿が映っている。金色の髪は少し硬くさらさらとしていて顔を埋めると気持ちがいい。雪のような白の髪を持つ者達とはまた違ったものだと、七代は噛む場所を移しながらその感触を楽しんでいた。

「……坊」

 己のものとは違う低く響くまさに大人の男といった声に、七代は耳を甘噛みすることで答えた。上から徐々に下へと唇を移し歯を立てる。呆れたように吐き出された溜息に、彼も変わったなと思う。出会った当初、彼は七代に何も見てはいなかったし、七代も彼はどうも食えない奴だと思っていた。
 少し、温和になった。封札師という仕事の上司が言ったように、気配や存在を押し殺すようなことを無理にしなくなった。それは彼の対である存在も同じようで、七代はそれを好ましく感じる。

「ごめん、なに、鍵さん」
「……坊、私は確かにいいとは言いやしたが、この体勢は少し辛いものが」
「重ねてごめん、完全に寄り掛かっていいですよ」

 答を聞く前に七代は鍵の体を引き寄せ、自身は石段に腰掛けると鍵を抱き締める。これで素なのだから質が悪い。鍵はふっと息を吐き出し、小さく笑った。
 今度は腰に回った腕と、再び耳を噛まれる感触が嫌ではない。冷たい我が身がぬるい温度に侵食されていくのが、むしろ心地よくもある。
 ぴくりと耳を動かしてやれば自分を抱え込む体がびくりと震え、歯と唇が耳から離れた。

「ごめんなさい、痛かったですか?」
「千さんは、相変わらずですね」
「……ありがとう」

 すぐ斜め上に視線を向ければ、何がそんなに嬉しいのかふわりと微笑む顔が見える。風に揺れる黒の髪と、それを飾る花をかたどった髪留めは、夕日の光を反射し、鈍く輝いていた。
 直に太陽が沈み夜がくる。朝がくればまた太陽は昇り、当たり前のように明日がくる。そんなことを素晴らしく思うのだと、七代は呟いた。

「色々あったけど……よかった、相変わらずと、言ってもらえるような人間で」

 泣いているわけではないだろうに。意味もなく髪に顔を埋められ、再び耳を噛まれるかと鍵は身構える。
 予想通り唇が耳に触れる、が、そこから先が予想外で。
 唇は触れただけ。わざと、小さく音を立て口付けられた。

「……まったく、千さんにはかないませんね」

 悪戯が成功した子供そのもの。くすくすと七代は楽しそうに笑っている。
 他の者にしている姿は何度も見たことがあるが、実際にされるのと見るのとでは大違いだ。
 親愛の証。普段は親が子にするように贈られるそれは、子が親にするかのように贈られた。

「そろそろ三人とも帰ってくるかな」
「もう陽も、沈みますからね」
「夕飯を作って待っていないとね」

 そう言ったと思うと腕が体から離れていく。急激に熱を失う体に、やはり自分はそんな存在なのだと思い知らされるが、体が完全に離れる前に手を掴んで鍵は七代を引き止めた。
 中途半端に辛そうな体勢のまま七代は首を傾げる。鍵は警戒心のまったくない様子に笑みを深め、するりと首筋に唇を寄せた。

「……? いッ……!」

 獣のものではない、人間の耳に牙を立てる。噛み付いてからも、七代は声を上げはしたが抵抗はしなかった。
 すぐに離れて見た顔は、今まで見たことがない表情。目を見開いて、何が起こったか分からないと言った雰囲気で噛まれた耳を手で押さえている。

「さて、夕飯の仕度をするのでしょう?」
「……うまく化かされた気分だ、これが人生経験の差か」
「私のような存在の生を、人生と呼んでいいのかは分かりやせんがね」

 七代は自分を落ち着かせるかのように小さく呼吸を繰り返す。最後に、大きく息が吐かれた。坊の溜息なんて初めて聞いたと鍵がからかうように言えば、七代は困ったように笑う。
 全てを誤魔化すようにお供え物は稲荷寿司にしようかと言った顔は、もういつも通りだった。

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