「鍵! 参拝者がきたぞ!」
 人間という存在にはないふさふさとした毛に覆われた尻尾を勢いよく振りながら、石段を駆け上がってくる対の存在に鍵は眉間に皺を寄せる。そのまま自身の下へと一気に駆け寄った彼のいつも以上に興奮した様子に、参拝者などいつでも来るではないかと冷たく言えば、少し上擦った声でとても変わった人間なのだと彼は語った。
 どう変わっているのかと鍵は小さく首を傾げることで問う。相変わらず元気よく嬉しそうに振られる尻尾が彼の興奮を分かりやすく視覚化していた。尻尾など見なくても、彼は表情がくるくるころころと変化し、考えていることがすぐ顔に出るのだが。

「俺が見えていた!」

 一言。それだけで説明できる事柄だが、確かに今ではかなり変わった人間だ。昔は人ならざる者を当たり前のように感知できる人間も山ほど、とは言えなくともそれなりの数存在したが、時が進み新たな時代へと移り変わる内にそんな人間の数は激減した。
 しかし、所詮その人間が見たのは自身と対の、人間好きの気配も消さぬ狛犬だと鍵は擦れた心で考える。そこらに漂う姿も持たぬ思念ではなく、強い信仰と時の流れにより力を付け、形を隠そうともしない狛犬ならば、その姿を瞳に映せる人間も居るだろう。
「その顔はまた捻くれた考え方をしているな、かなりはっきりと見えているようだったから、もしかして鍵のことも見えるのではないか?」
 その言葉がおかしくて、鍵は小さく笑った。そんなことあるはずがない。無理に存在を押し殺す鍵の姿が、見えないように悟られないようにと息を潜める鍵の姿が見えるはずがない。本当に、その人間がただの人間であれば。
「鍵の人嫌いは筋金入りだな、……あ、ほら、あの人間だ」
 つい、と彼が指が示した先には、石段を上りきった人間が立っていた。
 瞬間、ぞくりと体が震える。その人間の眼に、鍵は恐怖を感じた。淡く、全てを見通すかのように輝く金色の瞳。しかしそう見えたのは一瞬で、金色に見えた瞳は日本人として一般的な色をしていた。
「どうだ、変わった人間だろう?」
 今度は、言葉を否定できなかった。存在感や威圧感があるわけでもない、むしろ穏やかで、霧のような、霞のような、そんな雰囲気の人間だった。それでも、一歩、一歩と近づいてくるその人間から目が離せない。
 それは恐怖からか、と言われたならそれは間違いではないが、それとはまた別の様々な思いが渦巻いている。
 金縛りにあったかのように動かない足。本来自分が人間に与える筈の拘束を人間に施されたようで、その人間は本当に人間なのかと疑ってしまう。
 その魂の輝きは間違いなく人間のものだが、何かに遮られてしまっているような。

「……確かに、変わった神社だな、狛犬と稲荷が対なのは初めて見た」

 吐き出された声は想像よりも少し高く。肩上で短く切り揃えられた黒の髪がさらりと揺れる。髪と同じ黒の学生服に身を包んだその人間は鍵の方へと視線を向けると、少し口の端を上げ、小さく頭を下げた。
 何故かそれがとても屈辱的に感じ、鍵は反射的に人間に背を向ける。隠しているはずの姿を、こんなにも簡単に悟られた。何より、姿を感知された時、こちらを見据える琥珀色の瞳が、また金色の光を宿した気がしたのだ。
 全てを見透かされるようでぞっとする。背後の気配は何一つ変わることなく、やがて背に感じていた視線もそらされた。それを確認してから鍵は横目に視線を対の存在へと向ける。
「人間、見えているな」
 どこか偉そうな、普段とは違う神使としての威厳を感じる声に人間は小さく頷いた。焦ることも、驚くことも、恐怖することもなく。とても穏やかに。
 それを見た彼は、ぱっと太陽のように笑うと警戒することもなく人間へと近づいていく。流石にそれはいけないのではないかと鍵が声を上げる前に、彼と人間の手は触れ合っていた。
「鍵、見えるどころか触れるぞこの人間」
「形を持つ存在ならば大抵のものにはそのまま触れることができる、貴方は狛犬か」
「そうだ、……ところで人間、先程から気になっていたのだが、持っているな」
「私は前から思っていたのだが、狛犬の嗅覚は犬と同じようなものなのだろうか」
 何やら失礼なことを言っているのではないかと思ったのは鍵だけで、その言葉を向けられた対の存在自身はまったく気にしている様子がない。彼の視線は、人間が差し出した布袋へと向けられていた。
「学友に狛犬と稲荷が対だと聞いていたから握り飯と稲荷寿司だ、……まあ待て、そんな顔をするな、いま供える」
 鍵でさえ、対の存在のゆるみきった表情を情けなく思った。それでも神使なのかと。神の使いが、人間相手にそんな表情をするなど。
 この場合の供え物というのは、人間が神に捧げる供物の意を持つというのに。しかしそんな対の存在よりも、自身が思わず稲荷寿司という言葉にぴくりと耳が動いてしまったことに対して鍵は誰に知られることも無く顔を歪めた。

「ひとつ、いいだろうか」
「何だ?」
 自身の本体である像に供えられた握り飯にさらに頬を弛めていた彼は、ふっと吐き出された人間の言葉にこてんと首を傾げる。そうして人間の唇から零れ落ちた問いは、鍵達を動揺させるのに十分な力を持っていた。

「この神社は、いったい何を祀っているんだ?」

 全て、解っているよと言う眼で。
 今度こそ、見間違いではない。淡い金色の氣を宿した瞳は、本殿を見据えている。
 唖然とした神使に見詰められ、そんな言葉を吐き出した人間はふっと笑った。
 身の毛が弥立つとはこのことだ。突然目の前の人間が化け物に見えてくる。何を、笑っているのか。その強い氣を持つ眼でも、見据えられないものに対してか。
「……人間、それは、何も知らぬ者が関わっていいことではない」
「そんな気はしていた、触れてはいけない領域に触れて、申し訳ない」
 鍵でさえ滅多に聞くことがない対の存在の咎めるような低い声に、やはり人間は動揺も恐怖も無く謝罪の言葉を口にした。張り詰めた空気など気にならぬように。まるで別世界に居るように。
 そう、どんなに特殊な眼を持っていたとしても、鴉羽神社の隠すところを見たとしても、その人間は、部外者だった。
 そこまで考えが及び、鍵の緊張が解ける。しかしめずらしく愛想も良く人好きする対の存在の緊張が解けない。それも、今の羽鳥の状態を考えれば仕方の無いことだと思った。

「本当に嫌なことを聞いてしまったようだな、詫びも含めまた今度何か供えに来よう、何がいい?」
「……俺は酒が好きだが、鍵は下戸でな」
 だから、鍵にはまた稲荷寿司でも持ってきてくれ。そう言った彼の表情は、まだ硬かった。酒などまだ飲めないであろう人間の子供に、何を思ってそう言ったのか。人を嫌う鍵でさえ分かってしまった。対の存在は、自分と違ってとても優しい。
「……分かった、何年先になるか分からないが、酒が飲めるようになったら供えに来よう」
「人間、名は」
「またの機会に、名など知らずとも、顔を憶えておらずとも、巡り会わせとは不思議なものだからな」
 その時は一緒に飲めると嬉しい。人間はそれ以外何も言わず、ただ少し、今までより分かりやすく微笑み頭を下げると、踵返した。

 遠ざかっていく背に、彼はほっと息を吐く。これで、あの不思議な眼を持った人間を巻き込むことは無いと。
「まさか、あそこまで悟られるとは思わなかった」
「あれは、かなり特殊な例でしょうね、人間かすら怪しい」
「……彼女にも、あんな眼があれば、何か違っただろうか」
 逢魔時。まるで空が燃えているような、赤く染まった世界。本当に妖怪や幽霊にでも会いそうな日の出会い。
 どちらが人ならざる者であったのか。鍵は答えを出すことができずにいた。



 その出会いからひと月ほど。対であった狛犬は、鬼に存在を喰われた。

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