学校の図書室と町の図書館を行き来する毎日。家に帰ればたった一人の家族がいる。
それが、七代千馗の日常だ。
 他界した両親の代わり千馗の面倒を見てくれている老人は千馗の母の父親だという。しかしその言葉の真偽は不明だ。幼い千馗の周りの大人は皆口を揃えてそう言ったが、成長すれば見えてくる言葉の穴というものがある。
 幼い千馗でさえ疑わしく思ったその言葉を信じたのは、その老人が千馗と同じ眼を持っていたからだ。
 それが普通の人には見えないものだと気づいたのはいつだったか。母親に、それに触れてはいけないよと言われて初めてそれが人ではないことに気づいた。
 母親の目は千馗ほどそれを正確に捉えなかったが、間違いなく母親にも見えていたのだと千馗は分かっていた。だからこそ、千馗の眼から見るのと同じ世界を見ていた彼を、母親の父親と信じたのだ。
 十年以上面倒を見てもらった今となっては本当のことを聞いてみようかという気は起きない。たとえ老人が血の繋がりからみて他人であったとしても、家族であることに変わりは無いのだから。
 沢山のことを教えてもらった。高校にも行かせてもらった。おそらく初めて自分の見ている世界を理解してもらった。千馗は彼に返しきれないほどの恩がある。

「七代」

 聞こえてきた自分の名前に反射的に顔を上げる。少し視線を動かせば、不思議そうな顔で同級生がこちらの様子を窺っていた。一度本に集中してしまうとどうにも周りが見えなくなる。
 七代はぱちぱちと数回瞬きした後、今ここが教室で自分が呼ばれたのだということを理解した。
「な、に?」
「担任呼んでるぞ、職員室こいってさ」
「分かった、ありがとう」
 それだけ言って友人の元へと帰っていく同級生を見て、まだ少し本から抜けきれていない頭で用事があるなら直接言ってくるか呼び出しでもすればいいのにと思う。
 両親がいないというのは予想以上に学校側に気を使わせるらしく、担任はあまり七代の領域に足を踏み入れない。これは七代が内向的であまり人と関わらないことが大きく関係しているのだろう。
 決して冷たくされたりということはない。今年三年である七代の進路などに対しては家庭環境も考えとても熱心に話を聞いてくれる。しかしやはり人として、触れてはいけない領域が広いであろう人間とは距離を取りたいのだろう。
 両親がいないことにを寂しく思うこともあるがこの歳になって少し踏み込まれた話をされたくらいでどうにかなるわけないのに、と七代は思うがやはり簡単に割り切れない問題であることは確かだ。
 それに七代は内気と見られているが実際そんな性格ではない。前向き、とも言い難いがそう簡単に傷つく人間でなく、自分にとって都合の悪い物事をゆるやかに流す技術を持っている。
 たとえば、両親が死んだ時。あの瞬間見えたものが何であったのか、七代は忘れることにした。

 本を鞄に詰めて椅子から立ち上がる。職員室までの道のりはどうしてこう憂鬱なのだろうか。特に今まで悪さをして職員室に呼ばれたことは無いはずだが職員室というだけで足が重くなる。またあの扉を軽く叩く瞬間が緊張する。
 三年生の教室は二階にあるので一つ階段を下りれば職員室はすぐそこだ。

「失礼します」

 すっと息を吸って職員室の扉を叩き、ゆっくりと扉を開いて口にした言葉は想像よりも大きく響いた。
「……三年A組の七代です、あの」
「七代君」
 一瞬、七代は息が詰まった。七代の声に職員室にいた教師全員が自分の方を向いたからだ。
 その視線はそらされること無く担任のもとへと向かう七代の姿を追う。何だろうと少し不気味に思いながら何でしょうかと七代は担任に問い掛けた。
 担任は随分と複雑そうな顔で無言で封筒を差し出す。差し出された封筒には七代の名前が書かれていた。
「それに必要なものは全部入ってるみたいだから、詳しいことは、先生達にもよく分からなくて」
 優しげなふわふわとした印象の女性の顔が歪むのは意外と辛いものだなと思う。七代の意識は半分以上受け取った封筒へと向かっていたのだが想定外の担任の表情に嫌なものを感じる。
「開けていいですか?」
 担任が頷いたのを見て、躊躇無く封筒の封を切る。
 中から出てきたのは試験案内の紙一枚と、富士麓の駅までの片道切符だった。










 父親は何も見えない知らない人間。母親は七代よりもそれを正確に捉えることが無かったので現実との区別が付かなくなるようなことはなかった。
 だからこそ千馗は成長した今でも理解できないのだ。あの時何故、千馗の眼でさえもはっきりと見ることができなかったそれに、母親が車の運転を誤ったのか。
 千馗が瞼を下ろした瞬間、がちりと嫌な音がした。



「……」
 声が聞こえたような気がする。ぱちぱちを数回瞬いて、七代は自分がどうなっているのか考えた。頬に感じる冷たい土の感触に本気で何が何なのか分からない。
 ふと、試験案内の紙一枚と富士麓の駅までの片道切符を思い出す。今自分がどこにいるのか思い出して少しほっとした。
 しかしこの体勢は何だろう。何故自分は地べたに這いつくばっているのか。
 考えたのは一瞬で、ここがどこか、から芋蔓式に木の根に足を引っ掛け盛大に地面に飛び込んだことを思い出す。
 意識を飛ばしている間に見た夢は一瞬をさらに切り取ったようなもので、本当に意識が飛んでいたのかも分からない。もしかしたらかなりの間寝ていた可能性もある。

 行き倒れ、浮かんだ言葉にぞっとして勢いよく体を起こせば、目の前に手が差し出されていた。

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