赤いエプロン姿。いつもなら共にテレビを眺めているはずの七代千馗を、白は台所で発見した。
 トントンと規則正しく包丁がまな板を叩く音がする。普段ならばそこに立っているのは清司郎のはずだが姿が見当たらない。
 何をしているのか、は見れば分かるがどうも見慣れない姿に声をかけるタイミングが掴めず白はじっと七代の後姿を見つめた。いくら数ヶ月前まで少し人とは違うものが見えるだけの一般人であったとしても、あの戦いを勝ち抜いた七代が白の気配に気づかないわけがない。わざと気づかぬ振りをしていることはすぐに分かる。
 七代は基本的に愛想が良く挨拶も欠かさない。それに加え白や零を見つけると構わずにはいられないという、零は嬉しそうだが白からしてみれば時と場合を選んで欲しいような癖がある。こんな風に無視をされるのは初めてだ。
 執行者としての責務、呪言花札封印の代償を知った時も七代は白を責める様な事も拒絶するようなことも無かった。構われなければ構われないで調子が狂う。

(やはりもう妾達は必要無いということかの……)

 呪言花札の事件の後、七代は封札師としての仕事に休みを貰っている。卒業までは羽鳥家に居候させてもらうようだがその後どうするのかは誰も知らない。
 これは白の勘だが、七代は白や零を含め呪言花札を本来の執行者の下へ、羽鳥家へ置いてどこかへ行ってしまうのではないのかという気がしている。少し前まで鬱陶しく感じるほどだった触れ合いも、最近は随分と大人しい。
 少しでも主の仕事を助けられるならと思っていた。そもそも置いていかれるなんて事考えてもいなかった。
 今更そんなことは認められない。七代千馗は唯一無二の呪言花札の主なのだから。離れるなんて認められない。
 主として、というのもあるが。白自身七代と離れるのが嫌だった。置いていかれるということに対して、まるで親を見失った幼子のような妙な焦りを感じる。きっとこれも心というものが生み出すのだろうと片割れである存在と語った日はそれほど遠くない。
 千馗はとても優しいから、いざとなったら駄々をこねてみればいいんじゃないかと真剣に考えていた零の顔を思い出し、白は小さく笑った。

「千馗様」
「ん、どうした?」

 くい、と赤いエプロンの裾を引っ張りながら名前を呼べば返事が返る。いつも通りの優しい声で。
 このあたたかさに一度捕らわれてしまったらもう二度と離れられない。忘れることなんてできない。
 しかし人間である七代と花札という物である白達の生きる時間は別物だ。きっといつか、忘れてしまう時がくるのだろう。優しい声も、その手の温もりも。全て思い出せなくなる日がくる。
 情報としてならば憶えていられるかもしれない。しかしそれでは駄目なのだ。心というものを与えられた。ならば心で憶えていなければ意味が無い。

「めずらしいの、妾は其方のそんな姿始めて見たぞ」
「仕事も終わったのに居候させてもらうんだし、手伝いくらいはと思って」
「……大丈夫なのかえ?」
「これでも料理は上手いんだ」

 ふふ、と楽しそうに笑う七代が、そういえば零は? と聞いてくる。空を見ておる。と夕日を眺め、明日は何をしようかと微笑む零を思い浮かべながら白は答えた。そうか、と笑う七代は今までよりも少しだけ嬉しそうで。

「のう、千馗様」
「どうした、白」

 七代の声は、千馗の言葉は一種の呪いのようだと零は言う。白もそれを否定することはできなかった。
 だがしかし、それは本当にまじないであったのか。白は今だからこそ考える。

「妾達を、おいていくなど許さぬからの」
「……」
「な、何じゃその顔は!」
「今すごく白を抱き締めたいけど抱き締められなくて泣きそうだけど幸せ過ぎて死んじゃいそうな顔」
「し!? し、死なれては困る! 其方にはできる限り長生きしてもらわねば困るのじゃ!」
「だから後で零も一緒に抱き締めて長生きするよ」

 千馗の言葉は、呪いのようだと零は言う。だがしかし、いつか必ず別れがくることを分かっているのに、ただの道具であったものに途方も無い痛みを感じることができる心を与えた七代のそれは、本当にまじないであったのか。
 零はそれをまじないと呼んだ。しかし白はそれをのろいだと思う。
 伝えきれないほどたくさんのものをもらって。それでもまだ、いなくなってほしくないと、ずっと共にいたいと思うのは。贅沢すぎるだろうか。

「……千馗様の作った玉子焼きが食べたいの」
「玉子焼き? まあ今からでもそれくらいなら」
「い、今でなくてよい! また、その、明日でよい」
「……うん、また明日」

 明日のことなど、白は零ほど気楽に考えられない。それでも明日というのは、とても素晴らしいことだと思う。
 今はそれでいい。今は明日また、主が幸せそうに微笑み、その傍らに自分達がいる。そんな未来を想像できるだけで、十分なのだ。

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