二周年企画 | ナノ






その客が姿を現したのは、実に半年振りの事であった。

「久しぶりだな」
「………」

片手を上げてにっこりと微笑む彼の再会の挨拶。エルザは無言の仏頂面でそれを迎え撃った。
お付きの者達に一言「下がれ」と命じる。自分でも分かる不機嫌な声音だった。
最後の一人が部屋から出て行くと、部屋に残ったのは自分と彼と痛い沈黙だけ。時間が経つに連れ低下する一方の空気に、彼も流石に焦りを覚えたらしい。

「な、なぁ。エル……」
「確かに久しぶりだな、ジェラール」

始まったばかりの弁解をぴしゃりと中断させられ、いよいよその客――ジェラールの額に汗が見え始めた。
しかしエルザは容赦なく、追及を緩めるような事など勿論しなかった。

「半年。そう、半年だ。てっきり私など忘れて他の花魁と宜しくやっているのかと疑った」
「エルザがいるのに他の女を見る余裕なんかないさ」
「口では何とでも言える」

さりげない口説き文句に一瞬落ちかけた自分の心を寸前で拾い止める。
危ないところだった。この男に惚れた弱みなど見せてはいけない。少しでも隙を見せればたちまち向こうのペースに巻き込まれる。
改めて表情を引き締め、エルザは一段と冷たい口調で自分が認めた唯一の客に命じた。

「説明するんだ。こうも長い間、手紙の一つも寄越さず姿を見せなかった理由を。私が納得できるようにきちんと」
「……説明して良いのか?」
「勿論だ。……っ」

ぽつり、と呟いた彼の唇の両端が僅かだが吊り上がっているように見える。
お伺いを立てるジェラールの上目遣いな視線に、エルザは危険な妖艶の色を見た。

「それじゃあとりあえず、部屋を移ろうか」

エルザが気付いた時にはもう何もかも遅かった。





******




「こんな事するのも久しぶりだったか?」

布団一枚の下、耳元に囁きかけてくる彼の得意げな声が憎い。
男は良い。吐き出したいものを吐き出せればそれで気持ち良いのだから。それを受け止める女の身にもなって欲しいものだ。

「……私が床入れを許しているのは貴様だけだ。当然だろう」
「そうか。それを聞いて安心した」
「貴様こそ、半年の間、本当に一人も女を抱かなかったのか?」
「そんな事出来る状態じゃなかったんでな」

ジェラールの言葉に、エルザは布団に隠れた彼の胸元に指を走らせた。
まるで上等な美女のそれのように白く滑らかな肌に走る、一筋の大きな傷跡。
これ以外にも腕や脚、背中、髪に隠れて見えなかった額と、彼の体中には無数の痛々しい傷が刻み付けられていた。

「これが理由か?」
「あんまり触れるなよ。まだ時々痛むんだ」
「怪我人にしては随分威勢が良かったな」
「エルザが可愛いから、つい」
「誤魔化すな、馬鹿」

人斬りから見ず知らずの子どもを庇って怪我を負うなど、実にジェラールらしい理由だった。
地主の倅で圧倒的な権力を持ちながらも、それを鼻にかけようとせず、情と慈愛を以て民に接する。そんな彼だからこそエルザは心を奪われたのだ。
しかしそれで必要のない危険を犯し命を落としては元も子もないではないか。

彼を責めるつもりで吐き出した声は不覚にも震えていた。
エルザ自身に自覚はないが、ジェラールにとって苦手なのは彼女の怒りではなく悲しみだ。
伏せられた彼女の瞳が潤んでいたのを見て、ジェラールは取り繕うように弁明した。

「すまない……。けどもう大丈夫だ。後遺症も何もない」
「何故この事を報せなかった」
「心配させたくなかったんだよ」
「嘘を付け」
「嘘じゃない」

強くなった口調に驚いて顔を上げれば、ジェラールが見た事もないような真剣な表情でこちらを見つめている。
不意に彼のの手が伸びてきたかと思えばエルザの頬から何かを拭い取った。

「エルザのそんな顔を見たくなかったんだ」

指先に付いた雫を舐めとるジェラールを見て、エルザは初めて自分が泣いている事に気付いた。

「でも訳を話さないと怒るだろ」
「……あぁ、怒った」
「連絡を寄越さなかったのは本当に悪かったと思ってる。けど出来れば何もなかったという事にしたかったんだ」
「無理だろう、この傷では」

ジェラールの胸元に刻まれた生傷に指先を押し当て、なぞるように動かす。
もうその声音に怒りの色は皆無だ。怒りよりも心配と、彼とこうしていられる事への安堵の方が遥かに大きかった。

「一生残るのか?」
「名誉の勲章って事で納得しているよ」
「……もう二度と無茶するな」
「精進するよ。じゃないとエルザが悲しむからな」
「ッ!だ、誰が悲しむもの……−−!」

顔を真っ赤にしたエルザの声は途中で萎んで最後まで聞こえなかった。
暫く水を失った魚のように口をパクパクさせた後、もう一度顔を伏せると思いきりジェラールの体に抱き着いた。
彼曰く『名誉の勲章』である傷に頬を添えて、彼女らしくない弱々しい口調で、絞り出すように囁く。

「そうだ。私が悲しむ」
「……エルザ?」
「だから、頼むから無茶しないでくれ」

貴方が愛しい。貴方を失うなんて考えられない――考えたくもない。ずっとずっと、これからずっと先も自分と共に在って欲しい。
ジェラールへの愛情で胸は溢れているというのに、エルザが言葉に出来たのはそんな短い言葉だけだった。
それでもエルザの気持ちを察したらしいジェラールは力強くエルザを抱きしめ返した。

「斬られた時、思い出したのはお前のことだった」

強く、強く。二度と離さないとばかりにエルザを抱きしめてジェラールは言う。

「初めて会った時、初めて言葉を交わした時。それから一緒に飯を食ったときやお前を抱いた時の事。全部、お前の事だ。それに怖かった。エルザに二度と会えないと思うと死ぬのなんかどうだって良いぐらい怖かったんだ」

一気に捲し立てるジェラールに、エルザは彼の腕の中で目を見開いた。
死の間際だというのに考えていたのは自分の事ばかり。呑気な奴だと呆れ――そしてとても嬉しかった。

「だからもし生きてもう一度エルザに会えたら、その時は絶対に離さないと決めた」
「ジェラール?何を……」
「一緒になろう」

刹那、呆れも嬉しさも綺麗さっぱりと消え、代わりに驚きばかりがエルザの心を満たした。
ジェラールの顔を見たくとも彼にこれでもかとばかりに抱き絞められている為、満足に顔を動かす事も出来ない。
視界に入るものと言えば例の大きな傷跡だけだ。

「俺に身請けさせてくれ、エルザ」
「あ……え?」

思ってもみなかった。
離れたくないというひたすらに漠然としていた想いが、ジェラールの言葉に支えられ形作られていく。
一緒にいてくれる。彼が、自分と一緒にいたいと願ってくれている。

「わ、たしは」

エルザは思い出した。ジェラールがいなかったこの半年間。何の連絡もなく、ただひたすら虚無感に襲われていた月日を。
そして理解する。自分はもう彼無しでは生きていけない、そんな当然の事実に。

「返事は?」

分かっているくせに、全部お見通しの癖にわざと聞いてくるジェラールは意地悪だ。
答えなどとうの昔に決まっている。




傷口に囁いたのは愛




もう片時も離れたくないのだから。だからどうかこの腕を離さないで欲しいと願った。










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