進撃の巨人 | ナノ
夢を、見ているんだ。
アニは食堂にいた。
食堂、というのは訓練兵達が使う、彼等にとっては数少ない憩いの場だ。
並べられた長テーブルに古びた椅子の数々。天井から吊るされたランタンの火に照らされたそこは、アニがかつて見た事のない程に静かで、閑散としていた。
たった二人分の息遣いだけが、ただっ広い部屋で虚しく聞こえる。
「よう」
アニは数ある椅子の一つに座っていた。丁度その向かい側にも少年が一人。
片手を上げて短く挨拶するその様は、まさしく訓練兵時代の彼の姿そのもので。
「………」
挨拶を返さず、感情のない瞳で彼を見つめ返すアニの反応もそのままであった。
「んだよ、相変わらず怖ぇな」
「怖いって……それが乙女に対する口の聞き方かい?」
「おぉっ、やっぱ相変わらずだな。懐かしいぜ、その物言い」
「……エレン?」
アニはふと疑問を覚えた。
「何でここにいるの?」
「逆に訊くけどお前はここがどこか分かってるのか?訓練所の食堂とか、つまんねぇ答えは止せよ」
椅子の背もたれに肩肘を引っかけ、やたらとリラックスしたエレンの様子に違和感を覚える。
こんな余裕めいた態度、馬鹿正直で熱血漢な彼らしくもない。
「……わたしの夢?」
「あぁ。そういう事にしとけよ」
「何かアンタさっきからムカつくね」
机の下で脚を振れば、爪先が固い物にぶつかる感触。
大げさな悲鳴を上げて飛び上がるエレンに安堵感にも似た何かを感じた。
「夢のくせに痛がってるんじゃないよ」
「おまっ……容赦、ねぇなっ」
「相変わらずだろ」
本当に痛かったのかどうか定かではない。なんせこれは夢であり、夢に痛覚など存在しないのだから。
ひとしきり悪態をつき終えると、エレンは再び椅子に腰を下ろし、アニを見据えた。
「じゃあさ、何でお前は夢を見てるんだ?」
「何でって……寝てるからじゃないの?」
「だよな。水晶の中でぐーすかぴーすかだもんな」
その言葉に記憶が刺激される。
アニは知った。否、思い出した。血と肉と悲鳴、夕焼けの空、そびえ立つ壁、それに巨人。そうだ。巨人だ。
「………あ」
何とも間抜けな声がアニの口から洩れた。意味のない空気の振動は誰に拾われるでもなく消えてなくなる。
惚けた表情のアニを見つめるエレンは、それはつまらなそうな、しかし同時にどこか寂しさも感じさせる、複雑な面をしていた。
「言っとくけど俺はお前を赦さねぇ」
エレンの言葉には至極当然と言わんばかりに何の感情もなかった。
当たり前だと。怒る余地も同情する余地も悲しむ余地もない。ただただ、それは当たり前の事であるのだと。
「……そうだね」
そしてそれはアニも同じ思いだった。
自分が為す事は赦されるべきではない。赦してはいけない。誰も、神も、悪魔も、自分自身からさえも。
分かっていながら、アニは決行した。分かっていたからこそ彼女は苦しみ壊れ、心を破滅させた。
「今も覚えてる。残ってる。まるでトマトか何かを潰しているような感覚だった。気持ち悪かったよ。人間の体が、体の一部が、手や足に張り付いてるのが分かるんだ。みんな私を憎むか、それか怖がってた。斬られるの痛かったなぁ。脚や目を何度も何度も、何度も何度も何度も何度も。痛いのは嫌だから、それに邪魔だから、皆殺しにしてやったんだ」
捲し立てる、吐き出す。全て。そう全てだ。
「途中からはさ、何にも感じなくなった。何にもだよ。アンタの班の仲間を殺した時もそうだ。何でアンタは怒ってるんだろう、って本気で分からなくなった。ただやらなくちゃって。エレンを連れ帰らなくちゃって」
エレンは何を言うでもなく、静かに椅子から立ち上がった。
しかしそれに気付かないのか、アニは遂に気が狂ったかのように叫び出した。
「使命、そう使命!私にはやらなくちゃならない事があった!それを果たせれば良かった!じゃないと私に帰る場所なんてないから!帰る、帰る帰る!帰りたかったから殺した!その為なら人の命なんてどうでも良かった!!私が幸せになれるなら他の連中なんてどうでも――!」
「黙れ」
その言葉はアニのすぐ耳元で聞こえた。
ようやく気付く。目の前にエレンはいない。エレンは後ろから、自分を包み込むように両腕で抱きしめていた。
「お願いだから、黙ってくれ」
それは懇願にも聞こえた。切実で、誠実で、儚い願い事に似ていた。
体を包む熱い温度に言葉が止まる。止まってしまう。アニは何も言えなくなってしまった。
「アニ。俺はお前を赦さない」
囁くように繰り返す。
「全部知ったよ。お前等の生い立ちも、襲撃の理由も、壁や巨人や世界の事も。でも何を知った所でお前等が人を殺したのは事実だから、俺は赦せなかったし赦すつもりもなかった。一生をかけて、母さんや仲間や、多くの人達の仇を憎んで、恨み続けた」
そうだ。それは当然の事だ。赦さなくて良い、貴方は正しい。
言葉には出来なかったが、アニは小さく頷いた。それが全てで、終わりなのだと。
しかしエレンの話は終わらなかった。
「そして俺の一生は終わった」
「………エレン?」
身を捩って顔だけ振り向けば、エレンは笑っていた。それはとても穏やかに――彼らしくない笑い方だ。
「赦す事は出来ないけど、恨んで憎むのは一生で十分だ。俺はもう疲れたんだよ」
「エレン、何を言ってるの」
「一生の中で、たくさんの後悔をしてきた」
言葉の意味が分からずひたすら困惑するアニを無視して、エレンは話を続けた。
ただ彼女の体に回された二本の腕だけはしっかりと離さず、力強い。
「後悔ばっかりだったよ。リヴァイ班の事もそうだし他にも。後でこうすれば良かったって悩む連続だった。お前の事もそうだ、アニ」
「………殺しておけば良かったって?」
「違う。抱き締めりゃ良かった」
ギュゥ、とアニを包む腕に一層力が込められる。
「好きだ」
「……は、」
「好きだったじゃねぇぞ。今も好きだ」
「いや、待ちなよ」
「一生、お前を恨んで憎んで、そして焦がれ続けて来た」
「待てってば!」
「待たねぇよ馬鹿が!」
叫んで、エレンはようやくアニを放した。
かと思いきや今度は肩を引っ掴んで体を向き合わせ、そして正面から抱きしめた。先程の何倍もの力で、容赦なく。
「水晶なんかに閉じこもりやがって、この臆病者が!しかもずっとだんまりとか、ふざけるなよ!人殺しのくせに――あんな、あんな泣きそうな顔のまま固まりやがって!全部終わった後でもお前だけはあのまんまで!俺が会いに行ってたのだって気付かなかったんだろ!?そんで結局最後まで……遂に寿命尽きちまったじゃねぇか!」
「は……ちょ、エレン。アンタ、まさか」
「そのまさかだよ、このやろうが!」
ここに来てアニはようやく理解した。
含みのあるエレンの物言い。記憶にある彼の雰囲気との違和感。全てを理解し、そして――涙が流れた。
「………ずっと?」
「……………あぁ」
「一生、待ってたの?」
「思いっきり罵倒して、それから抱きしめてやるつもりだったんだ」
ようやく叶った、と。
か細い声で続けて、そしてエレンはゆっくりと瞼を閉じる。
艶やかなアニの金髪に頬を当て、安心したように、眠るように。
「お前のことが好きなんだ」
「……そう、なんだ」
「アニも俺のことが好きだろ?」
「勝手に決めつけるな」
「まぁどっちだって良い。アニは罰を受けなきゃならねぇんだ」
「ねぇ、さっきから何を」
「このまま、夢を見続けてくれ」
背中にアニの細い腕の感触を感じる。ずっと、気が遠くなるような長い時間、求め続けていた温もりだ。
「このまま目覚めないで。俺と一緒に来てほしい」
「来てほしいってどこへ?アンタ、どこに行くつもりなの」
「分からねぇよ。でも後悔はしない。俺達が幸せになれる、きっとそんな所だ」
どこだって良い。どこだろうと構わない。ただ、二人で共に在れるのならば。
「なぁ、俺を幸せにしてくれよ。アニ、お前が俺の一生の幸せを奪ったんだから。俺に幸せを返してくれよ」
「………クサいよ。セリフがいちいち」
「煩ぇな。俺も長く生きたんだ。茶々を入れるな」
ようやくエレンは両腕を下ろし、アニを解放した。
代わりに彼女の手を捕まえて握り締める。やや間があって、アニもエレンの手を握り返した。
「アニ、好きだ。恨んだし憎んだけど、それ以上にアニが好きだ」
「………物好きだね、アンタ。それに話が急すぎるよ」
「俺はもう何年も待ったんだよ。これ以上は無理だ」
ずっと一緒だ。これから、ずっと。
「だから行こうぜ。巨人も兵士も戦士もいない、どこか遠くに」
そこはまっさらな世界だ。二人の、自由な世界。何も彼等を縛る物のないそこには、確かな幸せがあった。
エレンはアニの手を引き、一歩を踏み出した。二人以外に誰もいない食堂を出口へ向かってゆっくりと進む。いや、それは入口の間違いだろうか。
「なぁ、アニ」
「……なに」
「これからも俺はお前を赦さない。だから……お前は安心して、自分を赦せよ」
苦しい事があれば言って欲しい。悩みがあれば共に解決しよう。そうすればもう、あんな悲劇は起きないはずだから。
二人――そう、二人でゆっくり進めば良い。時間は永遠にあるのだから。
「エレン、さっきの返事だけど」
「お、おぅ」
「……私も、同じ気持ち、だから」
ありがとう。私を赦さないでくれて。
ありがとう。私を救ってくれて。
ありがとう。私は貴方が大好きだ。
そして二人は眠りについた
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