べるぜバブ | ナノ






「男鹿辰巳」

昼の休憩時間、暑の食堂でようやく運ばれて来た味噌ラーメンにありつこうと口を開いた、まさにその時だった。
ラーメンの上に差した影と、氷の様に凍てついた声。曲がっていた背筋が自然と伸びる。

「あー……。ども、先輩」
「ご飯中に申し訳ないんだけど、少し時間貰えるかしら」
「今っすか」
「別に食べてからでも構わないけれど」

声の主を見上げるまでもない。彼女が自分の名をフルネームで呼ぶ時、それは彼女の機嫌が最悪の域にあるという証拠に他ならない。
ちらりと向かいに座る銀髪の同期を見れば、悟ったような顔をして首を振っている。

"行ってこい"

付き合いが長ければ、言葉がなくとも意志は伝わる。この状況で彼女を待たせるのは懸命とは言い難い。

「いえ、別に良いっす」

湯気を立てるラーメンを押しのけ、渋々立ち上がって彼女と向かい合う。
邦枝葵――男鹿がバディであり、先輩でもある女刑事。身長は男鹿の肩程までしかないが、凄んだ時の迫力たるや年配のベテラン刑事ですら怯ませる程だ。
そんな邦枝が不機嫌全開ですとばかりに睨んで来るものだから、流石の男鹿も思わず目を逸らした。

「ここじゃ何だから場所を移しましょう」

踵を返し、コツコツと靴を鳴らして歩き出した邦枝に続く。
最後に古市を振り向けば、したり顔で男鹿のラーメンを手繰り寄せる所だった。後で倍の額の金をかっぱらってやろう。
これから説教だというのにこの空腹は中々堪える。男鹿は小さく溜息を溢した。




******




「それで」

邦枝に連行――ではなく、連れられてきたのは署内に数ある喫煙室の一つだった。
椅子に腰掛け男鹿を見上げた邦枝の顔には、怒りだけではなく呆れも混じっていた。

「何度言えば分かるのかしら?」
「アンタこそ、何度繰り返せば分かるんだよ」

昼飯を邪魔された腹いせに小生意気な減らず口を叩きつけて応戦する。

「俺は俺のやり方を変えるつもりはねぇって」
「変えろとは言ってないわ。限度を知れって言ってるの」
「手加減はしてる」
「だったらもっとしなさい!」

反省するどころか、ケラケラと笑い出しすらした男鹿に邦枝の喝が飛ぶ。

「肋骨に両腕、左脚骨折!おまけに全身に打撲で全治半年!アンタ、容赦って言葉知らないの!?」
「よく憶えてんな。あれ?でも鼻もへし折ってやったような……」
「ヘラヘラしないの!」

ちょうど一週間程前の出来事だったろうか。
市内のスーパーマーケットで強盗事件を引き起こした無職の中年男性を、男鹿が現行犯で取り押さえた。
取り押さえたというよりは制圧したと言うべきか。得物のサバイバルナイフで抵抗して来た犯人を、男鹿は「正当防衛」と称して情け容赦なしに返り討ちにしてやったのだ。
男鹿の過剰とも取れる対応の結果、犯人は瀕死の重傷。たった今邦枝が述べた通りの有様で、現在入院中である。

「下手したらアンタ謹慎処分ものよ?いい加減弁えないと、もっと酷い処分だって有り得るわ!」
「お?心配してくれんのか?」
「なっ!?ち、がう!誰がアンタなんかを!」

露骨な動揺を見え透いた嘘で隠そうとする邦枝。
男鹿はもう一度声を上げて笑うと、彼女の肩を叩いて、宥める様に言った。

「そうガミガミすんなって。美人が台無しじゃねぇか」

刹那、飛んで来た裏拳が男鹿の顔面にのめり込む。ミシミシという鼻の骨が軋む音を聞きながら、男鹿は感嘆した。早ぇ。

「ってぇ!何すんだゴラァ!」
「ばっ、アンタが!アンタが……その!変な事言うから!」
「はぁ!?」

変な事とは何だ。今のセリフは古市からご教授頂いたものだ。

――邦枝先輩にまた怒鳴り散らされた時はこう言え。一発で効くから。

自信満々なドヤ顔で語る悪友の顔を思い出すと、顔の痛みと相まって無性に腹が立って来た。
ラーメン代どころの話じゃねぇぞ、あの女タラシ。三ツ星レストランのフルコースを奢らせた上で海に沈めてくれる。

「くそ、訳わかんねっ」
「それはこっちのセリフ。ホント、アンタって分からない……」

それは深いため息を付いて邦枝は椅子に座り直した。その背中には妙な哀愁が漂っている。
もう行っても良いんだろうか。いい加減腹が減って死にそうなんだが。

「まぁ、その、はい。俺も反省してます」
「嘘付け」
「チッ」

お許しはまだだったらしい。立っているのも疲れたので、特に断わりもなく邦枝の横に座る。

「タバコ吸って良いっすか?」
「いい度胸してるわね」
「だって喫煙室じゃんか……」

片手だけで器用に一本だけ煙草を取り出し、もう片方の手で懐にある筈のライターを探る。
胸ポケットの奥に入っていたそれを見つけた時、横から手を伸ばして来た邦枝が言った。

「一本頂戴」
「えー」
「えー、じゃない。先輩命令」
「良いっすけど別に……ほら、これどーぞ」


手に持っていた一本の煙草をそのまま渡す。邦枝の薄い唇に挟まれたそれにライターで火を灯してやった。

「ん、ありがと」
「チッ。偉そうにしやがってこのアマ」
「しばくわよ」
「さーせん」

気のない謝罪も今更だ。邦枝は特に気を悪くする様子もなく、ヤニ臭い煙を吹かしている。
その姿を見て、男鹿はふと違和感を覚えた。

「あれ?先輩って煙草吸いましたっけ?」

吸うどころか、寧ろ毛嫌いしていた節がある。男鹿が断りもなく煙草を出そうものなら、鋭いガンが飛んで来るのが日常茶飯事だった筈だ。

「少し前に止めたのよ。でも、嫌な事とかあった日にはたまにね」
「そーっすか。大変っすね」
「自覚がないみたいだから言っとくけど、その嫌な事ってほぼアンタ関連だから」

ふーっ、と吐き出された煙は、美人が吐いたからと言ってもやはり臭い。
何でこんな臭い物を吸い続けているんだろうと男鹿は自問する。しかし答えが返ってくる筈もないので、すぐに興味を失った。

「女なんだから、あまり吸わない方が良いっすよ」
「何それ、男女差別?意外と古い考え方してんのね」
「そんなんじゃなくて」

新しく取り出した煙草に火を付け、ゆったりと煙を吹かしながら男鹿は思い出す。
ふとした瞬間に嗅ぐ邦枝の匂い。香水なのかどうかは知らないが、微かに甘いそれを男鹿は気に入っていた。

「折角良い臭いしてんだから」

今度飛んで来た裏拳は、さっきの倍は早くて痛かった。





ヤニ臭い距離




天然の報いは山ほどの報告書。










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