べるぜバブ | ナノ
「アゲル」
短い言葉と共にルシファーが差し出してくれた物。それは何の変哲もない、普通のケーキの様に見えた。
スポンジを隙間なく覆う柔らかそうな白の生クリームに、飾り付けられた真っ赤な苺と砂糖菓子。至って普通の、ショートケーキだ。
「………」
「シノブニアゲル」
呆気に取られて反応を返す事を忘れてしまった。不安の色を滲ませたルシファーの瞳がこちらを覗き込んで来る。
「あ、あぁ。ありがとう」
「ウン」
「……いや、ちょっと待てよ」
待て待て待て、ちょっと待て。幾度かの深呼吸を経て、ようやく冷静な思考を取り戻す。
何の変哲もない休日の午後を、いつものように自宅で読書に費やしていた。そこに朝から姿を見かけなかったルシファーが現れ、両手に掲げたショートケーキを俺にくれると言う。
今日が何の日であるかは覚えているし、そうでなくともケーキの表面にチョコで描かれた鮮やかな文字を見れば、ルシファーの行動の意図を察するのは難しくない。
ただ、驚いた。そして信じられなかった。だからケーキはすぐには受け取らない。
「どうしたんだよ、これ」
「シノブ、キョウ、タンジョウビ」
「そうだな、知ってる」
「ダカラ、ケーキ」
「そうなんだが……」
親しい人の誕生日にケーキを買うか、或いは作る。それはこの世界では何の変哲もない事だろう。
しかし悪魔――しかも魔王級――に誕生日を祝われるなど、果たして誰が思うだろうか。事実ルシファーと出会ってから過ごしてきた数年、彼女から「誕生日おめでとう」など、一度たりとも言われた記憶はない。
そもそもルシファーが人間の言葉を話せるという事自体、知ったのはごく最近の事なのだから。
「チョコガヨカッタ?」
小首を傾げて尋ねてくるルシファーの、その仕草の可愛らしいことと来たら。
不覚にも垂れた鼻血を素早く拭い取り、鷹宮は邪な思いを自分の中から叩き出す。俺はロリコンじゃない。断じて違う。
「そうじゃなくてだな。……どうしたんだ、このケーキは?」
「カッタ」
「金はどうした?」
「カリタ」
「誰に?」
「コーケン」
コーケン?あぁ、攻拳。八坂の奴か。グッジョブ、コーケン。今度ラーメンでも奢ってやろう。
「祝ってくれるのか?」
「……ウン」
「ははっ。お前に誕生日を祝われるなんてな」
くしゃり。撫でたルシファーの髪は絹を連想させる、滑らかな触り心地がする。
くすぐったいのか嬉しいのか。ルシファーの表情が僅かに綻んだ。一体誰がこの子を悪魔と呼んだのか。360度、どこからどう見ても天使ではないか。
「ありがとうな」
「ドウイタシマシテ」
「それにしても、大きいの買って来たな」
机の上にどしりと置かれた円形型のそれは、つまりはホールケーキという奴だ。
甘い物は苦手とまでは言わないが、飛び抜けて大好物という訳でもない。何より鷹宮は元来食が細い性質である。そして契約者に似たのか、それはルシファーも同じであった。
二人で分けて食べると仮定しても、些かこの量は多過ぎだ。
「……どうせだから、あいつ等も呼ぶか」
個性豊かながら、己に絶対の忠誠を誓う王臣の面々を思い浮かべ、鷹宮は細く笑んだ。
「どう思う?ルシファー」
「サンセイ」
決めたのなら急がねばならない。ケーキというのは長くもたない物だ。折角ルシファーが買って来てくれたのだから、少しでも腐らせるなんて有り得ない。
早速スマホを取り出す鷹宮の裾を、ルシファーの小さな手がちょんちょんと引っ張った。
「シノブ、プレゼント」
「あ?プレゼントまであるのか?」
「カガンデ」
若干――否、かなりの感動を覚え、打ち震えながら、ルシファーに言われるがままに腰を曲げる。
裾を放した手は鷹宮の頬に添えられる。何をする気だ。鷹宮が問おうとしたのより一コンマ早く、軽いリップ音が彼の耳に飛び込んで来た。頬に残る温い感触に、鷹宮の理性が音を立てて崩れ落ちる。
「プレゼント」
「………」
「コーケン、ヤレッテ」
「………」
「シノブ、ウレシイ?」
問いかけ乍ら、ルシファーは笑った。頬を染め、顔を赤らめ、唇を綻ばせて笑った。
「………あぁ、サンキュ」
丸々一分の沈黙の後、ようやく鷹宮の口から絞り出されたのは、素っ気ない調子の短い礼の言葉だ。
俺をおもちゃにしやがったな、コーケン。許さねぇぞ、コーケン。
血走った目でコーケンの番号を探す鷹宮の脳裏で、おっかない思考が渦巻いている。
そうでもしなければ、とても正気を保っていられそうにないのは明白だった。
絶え間なく震え続けている鷹宮の背中を見上げるルシファーは、変わらず笑っている。
私の愛する人よ
生まれて来てくれて、ありがとう。
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