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わたしのすきなひと


兄のことは、好きだった。兄弟愛ではない感情が、オレたちの間にはあった。確かでは無いけれど。
よく笑う人だった。その笑顔をよくオレに向けていた。三つ上の兄はよく高校まで迎えに来てくれて、車の中からオレに笑いかけてくれていた。何か話しかけると、笑顔で返事をしてくれた。怒ることもあったけど、大概オレに向ける表情は柔らかな笑顔だった。
その笑顔が、好きだった。初めの頃は。
いつからか、うっとおしく感じていた。彼は何も変わらずにオレに笑いかけてくれていたのに、オレは何故だかもう彼を想って胸を焦がすことはなくなっていた。まるで胸から煙が出るんじゃないかという程に想い焦がれた彼は、オレの中にはもういなくなっていた。
言い訳をするとすれば、兄の独占欲を受けとめることができなかった。彼の想いを受けとめるにはオレは幼すぎた。
兄は事あるごとにオレに触れたがったし、いつも一緒にいたがった。オレのことを、何という訳でもなくじっと見つめていた。たまにその視線に居た堪れなくなって彼の方に目線を向けても、すっと目を逸らされた。
次第に彼の大きな手も輝く瞳も、オレの瞼を閉じさせるようになった。兄が全てだったオレの世界は、彼を自ら手放そうとしていた。
ある日、「オレは誰のものでもないよ」と兄に言ってみた。彼はぱちぱちと長いまつ毛を揺らしながら数回瞬きして、それから眉をハの字にしてみせた。叱られた犬のようだと思った。
「ごめんな」
彼は静かに認めた。それがどうしようもなくオレの耳に鳴り響いて、五月蝿いなと怒鳴ってしまいそうだった。今思えば、あの時オレはまだ幼かった。彼の気持ちに気づくには、幾千年もの時を経なければならなかった。彼は遠かった。

それから直ぐに、兄は留学した。兄妹の普通ではない、いかがわしい関係は終わった。彼は遠くへ行ってしまった。彼はオレの半身ですらなくなったのだと思った。



大好きで愛おしいひとができた。オレにとって大切な人。唯一の人。
リヴァイ、というのが彼の名前だった。自分の喉が声を出して唇が音を作るのがとても楽しくなった。彼の名前を呼ぶのが嬉しかった。
なにより、彼の名を呼んで振り返った時の彼の笑顔が好きだった。でもその笑顔を見て頬が緩んでしまうのと同時に、心臓は一瞬、何処かへ行ってしまう。リヴァイさんではない、何処かへ。オレはそれが何処だか知らないふりをした。事実、具体的に地図上でここだと指さすことはできない。見て見ぬ振りをしていればそのうちに心臓もずっとここに在るようになるのだと思った。

「リヴァイさん、ここのケーキ美味いですね」
二人でカフェに来ていた。いくつも年上の彼はもう社会人で、オトナだった。大学生になって自分の時間が沢山あるオレとは違って、彼は自分の時間が極端に少ない。そんな中でもオレのために時間を割いてこうして付き合ってくれているのだから彼もまたオレのことを愛してくれているのだと自惚れてもいいと思う。
「ああ。この間テレビでやってたんだ。お前が好きそうだと思ってな」
「そうだったんですか!ありがとうございます」
そう言ってフォークで一口大にカットしたショートケーキを口に運ぶ。 スポンジもクリームもイチゴも何一つとして欠けることなく、又強すぎる主張もなく、程よい甘さのそれは確かにオレの好きな味だった。
「リヴァイさんは食べないんですか?」
彼の前にはコーヒーの入ったカップがぽつんと置かれているだけで、このカフェの自慢のショートケーキは無い。
リヴァイさんはややした後に、一口もらってもいいか、と聞いた。
「ええ、ええ、すっごく美味しいんですから!ぜひ!」
すす、と皿を彼の方へ押した。きっと彼も気に入るに違いない。
手元の紅茶の入ったカップを口元に運びながらリヴァイさんの一挙一動を見守る。
彼の動きは滑らかで、美しい。
真っ白な、細長い指が可愛らしいフォークを掴んでケーキを小さくカットする。そんなに小さくなくていいのに、もっと大きめに食べたっていいのに。力の入れ具合だって完璧に操作されていて、ショートケーキはすんなりとフォークを受け入れて綺麗に分けられた。クリームもスポンジも、綺麗な切断面を誇らしげに晒している。
それからフォークを刺して、口元に持って行く。女の人みたいなさくらんぼ色の、薄い唇が開いてショートケーキを待ち受けて、そしてーー
全てが美しかった。彼を形づくるもの、全てが。彼の口に運ばれたケーキだって、彼の持ったフォークだって、オレが持った時とは全く違う。美しくいる。
じっと見つめるオレに気づいて、リヴァイさんは口内のショートケーキを嚥下してから口を開いた。
「お前、よく俺のことを見るんだな」
彼はそれをどう意図して言ったのかは分からなかった。
ただ、オレの心臓は違う何処かへーー意識したくない何処かへ飛んで行ってしまった。
心臓を無くしたオレは指から力が抜けて、まだ紅茶の入っていたカップを落としてしまった。
割れる音がした。
目の前の彼を見つめることしかできなかった。
視界の端で店員が「okyakusama」と焦ったような表情でゆっくり喋った。
彼はオレのことを見つめていた。
オレはそこから何も読み取ることもできなかった。
心臓は帰ってこない。
彼はゆっくり眉をひそめて「doushita」と発音した。
彼から視線をずらすことができなかった。

どくん、と片手に心臓が戻った。
一気に世界がうるさくなる。めまぐるしく動いている。
「おい、エレン」
片手にはリヴァイさんの手が重ねられていた。
全身に血が行き渡る。
「ごめん、なさい」
引きつるような声で謝ると、重ねられた手はオレの手を包むように握りしめた。いたたまれなくなって目を伏せる。
「すみません」
こぼれた紅茶と割れたカップを片付けていた店員さんに謝って、またリヴァイさんに目線を合わせた。彼はオレを見つめている。握り締められた片手は生温く、オレは手汗をかいてしまう。居心地が悪い。
「ごめんなさい」
誰に謝っているのか分からなかった。リヴァイさんは何も言わなかった。ただオレを見つめ続けていた。目の奥の、誰かを見たいようだった。
オレ自身に謝ったのかもしれない。彼に謝ったのかもしれない。心臓の旅した、何処かにいるひとに謝ったのかもしれない。
だって、オレは彼らを誰一人としてきちんと心からあいしていなかったのだ。
「ごめんなさい」
目の前の彼はオレの言葉の意味が分からないようだった。


27012014 こまち