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冬の夢


あたりは真っ白だった。冷たいまでの白なのに、肌に感ずる温度はちょうどよく陽だまりのなかにいるようだった。その世界の中で、どこに立っているのかも分からず、ただ足で立っているという感覚だけ認識できた。一歩踏み出せば、そこに足の着地点は用意されていないかもしれない。
だのにエレンは、足を踏み出した。向こうに同じく立っている人影の方に向かって。無意識だったのかもしれない、何の躊躇いもなく歩き続けるのだから。
彼に近づくにつれて彼の顔がはっきりと見えてきた。ぼんやりとしていたそれが段々とくっきり見えてくる。エレンは驚愕した。
自分と同じ顔だった。
エレンは足を止めた。彼に近づいてもやはりあたりの景色は何ら変わりなく、地面も存在しているのかわからなかった。

「やあ」
片手を上げて言う。ややしばらくあって彼も返した。
「やあ」
彼は奇妙な格好をしていた。体に巻かれたベルトのようなものは、彼の「趣味」なのか。両腿の脇についているねずみ色に光る四角いものは何か大切なものでもおさめているのだろうか。彼が少しでも身じろぎすると重厚な音を立てそうなそれは、彼の(エレンも人のことなんて言えないけれどーーというか彼がエレン自身である気がしてならないし、華奢な体つきも同じ気がしていたけれど)痩せた体躯には不釣り合いに見えた。
「面白い格好をしているね」
見れば見るほど奇妙だった。暖かいこの世界の温度とは正反対の、まるでエレンを包む世界の白のような冷たさを孕んだ、若しくはねずみ色の四角いものの中にありったけの恐怖を詰め込んだようなものだった。目の前の彼自身からはどことなく暖かさを感じるのに、纏うものがどうしても、エレンを脊髄に氷を詰め込まれたような気分にさせる。或いは彼を俗に言うドッペルゲンガー、見ると死んでしまうというドッペルゲンガーに見えたからそんな気分がしたのかも知れぬ。
彼はエレンの言葉を受けて微かに笑った。
「そう?」
細められた彼の瞳を見て、エレンは気づく。彼は金色の瞳をしていた。
彼は自分自身ではなかったのだと知って、(そこにあるのかないのか分からぬ)地を踏む力がふっと軽くなった。膝に力を込めすぎていたらしく、少しだけ膝に疲労を感じた。
「うん。見たこともない格好だ」
そう答えると彼は、「それならよかった」と言った。ちぐはぐな返答だと思ったが、エレンは曖昧に笑って誤魔化すことにした。いつものように。
話題が終わってしまって、静かになった。無論エレンと彼が喋っていた、その言葉の間にも静寂は存在していたが、エレンはそれがまるで無いかのように感じていたのだ。
エレンは足をもぞりと動かした。砂利の音をたてようとしたのに何の音もなくて、ああそうか地面に砂利ないのだと思い出す。
静かだ。
目の前の彼は人形のように微笑んだまま、口を開くことはしない。
静かだ。

どれほど時間が経っただろう。エレンにはほんの三十秒にも満たない気もしたし、また太陽が東から登り西に傾き地平線へ吸い込まれるその何時間もが経ったような気もした。どちらでもよかった。体がふわふわと浮くようで、でも足はしっかりと地を踏みしめている。奇妙だった。
「それじゃあね」
と彼は言った。随分唐突な終わりだった。
「もう終わりなの?」
エレンが問うた。この世界はとても居心地がよくて安心するから、まだ終わりにしたくなかった。いつまででも居られる気さえした。
けれど彼は無情にも続けた。
「うん。だってほら、もうそろそろ君は目を覚まさなきゃいけない」
目を覚ます?エレンははてなと首をかしげた。自分は目を開いているのに?彼を見ているのだから目を開いていることには違いないし、エレンに認識されている彼だってそのことは分かっている筈なのに。また変なことを言うなとエレンは下唇を突き出した。エレンのくせだった。
彼は今度は声に出して笑った。笑ってから言った。
「さあ、ほら聞こえる?」
彼が両手を広げた。
何か、とおくから音が響いている。聞き覚えのあるーーああ、そう、これの音は目を覚ませという命令で、だからエレンは…



ジリリリリリリリ

目覚ましがなっていた。
エレンは夢を見ていたようだった。手を伸ばして枕元の目覚ましを止めて、その夢を思い出そうとする。しかし布団から出した腕が冷たい空気に触れてエレンの頭を覚醒させる一方で、夢を思い出すことは困難になっていた。思い出そうとすればするほど、指の間から砂が落ちていくように記憶が薄れていく。それも急激に。エレンは歯がゆさに唇を噛んだ。しかしどうにも思い出せない。
エレンは布団を被り直した。まだあと十分は眠っていても大丈夫だ。
布団の中のエレンに残されたのは、それがひどく心地よく安心できる、まるで母の胎内にいた頃のようなものであったという感覚のみだった。


131230 こまち