あの子のマスカラは確かに青かった ※エレン♀の生理表現有。 「エレン、オレ」 その時、足元から床が消えたんじゃないかと本気で思った。 「好きな人ができた」 彼女の唇から発せられた言葉は、いとも容易くエレンの鼓膜を揺さぶった。 *** 同じ名前、同じ名字、ほとんど同じ顔、違う性別。 双子の兄妹のエレン・イェーガーは、二人ともよく似ていた。目の色や眉の形、黒子の位置や髪型で判断することはできるが、それでもよく似ていた。それでもお互いに、お互いを同じ顔だとは思っていなかった。それこそ"似ている"かもしれないが、"全く同じ"ではないのだと、同じ顔だと言われるたびに二人して主張した。そしてその度に、苦笑されるのだ。 二人はいつだって一緒だった。小学校の登下校だって、中学の頃には部活で一緒の時間に行けなかったけど部活が終わってからは一緒に登下校したし、高校だって同じ学校を選んだ。兄のエレンは、そんな妹とずっと一緒だと思っていた。男は女より精神年齢が低いとよく言うが、多分その通りなのだろう。同じ母から生まれ、同じ屋根のしたで暮らしてきた。離れることなんてないと、そんな幻想を抱いていた。 確かに妹はここ最近、女になっていたと、エレンは思い出す。 エレンは妹が初潮を迎えたときのことを覚えている。変質的な意味ではなく、ああエレンが単なる妹ではなく女だったのだと自覚したのだ。体つきもふっくらしていて、まあまだ発達途中の胸だっていくらかは膨らんでいたし、股の間から血を流すことも女であれば当然だと、エレンは無理やり飲み込んだ。あれは、妹のエレンが先に風呂に入って、次はオレが入るから、と扉の向こうの妹にエレンが声をかけた、ちょうどそのすぐ後だった。中1の冬だった。エレンは彼女が風呂に入っている間にリビングでテレビでも見ていようとリモコンを手に取った。静かな、寒い夜だった。 突然、「わああっ!?」という、妹の声が風呂場から聞こえてきた。虫が何か出たのかと「どうしたの」とエレンが尋ねると、いきなり扉が空いて全裸のエレンが姿を現した。 「エレン、血が、血が」 見れば、エレンの足には赤い液体が伝っていて、真っ白な風呂場のタイルには点々と赤が主張していた。エレンは、妹よりも冷静だった。 「生理じゃないの」 静かに放たれたエレンの言葉に、驚き息を荒くした妹は暫くした後、「そっか」と嫌にすんなり納得して風呂場の扉を閉めた。エレンの網膜には、エレンの体よりも何よりも、真っ白なタイルに落とされたエレンの血液が焼き付いていた。そしてそれは、今もなお消えることはない。あの日からエレンは、女になったのだ。 そのことを考慮すれば最近の変化だって、受け入れられぬものではない。はずだ。それに、エレンとエレンはただの双子。血縁関係はあれど、婚姻を結べるわけでもなく、双子として一緒にいることはできるが男女として一緒になることは許されない。そのことを、エレンは知ってはいたけれど頭のどこかでは認めたくなかった。 その日はいたって普通の日だった。朝七時に起床、八時に家を出発し、八時半に学校に着く。それから授業を受けて、三時に学校を出て三時半に家に着いた。なんの変哲もない一日で、そのままその日は夜になり、エレンはいつものように十二時頃に眠りにつくはずだった。 けれど、その日はエレンにとって始まりの日になった。否、終わりの日と言ってもいいかもしれない。とにかく、エレンにとっては非日常的な出来事が発生した。それまでの人生では経験したことのない事が。 夕飯の後に、妙に神妙な顔をした双子の妹が、エレンの部屋を尋ねてきた。そのときエレンは勉強机の前に座って課題を片付けていた。 「どうしたの」 エレンは妹の方に体ごと振り向く。妹のエレンの顔には普段し慣れない化粧が、まだおとされずに残っていた。ファンデーションはしていないもののアイシャドウやチークは薄く肌に乗せられ、唇も桃色のリップが塗られていた。 「あのさ」 部屋の中に入って座ったらという兄の申し出を断ってドアのところに立ったままのエレンは、もじもじとうつむいた。いまだかつてそんなことをしたのは、彼女が両親に怒られるようなことをしでかしたときだったので、今回もそうなのかとエレンは彼女を見つめた。しかし彼女は口を開いたり閉じたりするばかりで、中々声を発さない。そうしてエレンがドアのそばでもじもじ、そんな彼女をエレンが見つめること三分。妹のエレンはとうとう口を開いた。 「オレな、エレン」 彼女の声を聞いた瞬間、エレンの本能が聞いてはいけないと叫び出した。それは確かに甘い声で、いままでエレンの口から聞いたことのない声だった。心なしか彼女の耳は赤くなっており、エレンはとっさに自分の耳を塞ぎそうになった。しかし、エレンは彼女の言葉を促す。今まで、彼女がエレンの部屋を尋ねたとき、口ごもったときにそうしてきたように。 「うん?どうしたの、エレン」 まるで無垢な赤子のように問いかけたエレンの瞳を、顔を上げたエレンの金色の瞳がまっすぐに射抜いた。 「エレン、オレ」 エレンは目をそらせなかった。だって、彼女の目は確かな意思を持って、自分のことを見つめている。例え頬や耳を赤くさせたって、顔を上げて彼女はエレンのことを見つめているのだ。 「好きな人ができた」 エレンの座っていた椅子が、崩れた気がした。 「そう、なんだ」 できる限り普段通りの声を出そうと努力する。 そうか。エレンはもう。 「うん。いや、なんか改まるとすげえ恥ずかしいんだけどさ。エレンには、言っておこうと思って」 先ほどの雰囲気とは打って変わって、えへへと照れたように笑うエレンを、エレンはどこか遠くの世界の住人を見るような気がしていた。 自分は、とうの昔から自分の妹に堕ちていたのだ。 それはエレンが初めて自覚した感情であり、また昔から知っていた感情だった。エレンは目を伏せてから、まだドアのそばに立っているエレンを見た。恋をすると女は綺麗になるというが、本当に彼女は美しかった。エレンは微笑んで、「叶うといいな」なんて、心にもないことを口にした。自分の耳には薄っぺらく聞こえて焦ったのにエレンの耳には充分綺麗に聞こえたようで、満面の笑みで「ありがとう」なんて言うものだから、エレンはひどく悲しくなって、もう妹の顔なんて見たくないなんて思った。 それから妹のエレンは、みるみるうちに綺麗になっていった。身だしなみにも気を使うようになったし、毎日薄く化粧をしていくようになった。言動だって今までは男勝りでがさつだったのに、今ではそれがすっかりなりを潜めて女らしくおしとやかにしている。エレンにはそれが、悲しくて悔しくて仕方がなかった。今までのエレンが失われていくようで。そして今まで兄のエレンが注意したってなおらなかったところも、そいつはいとも簡単に変えてしまった。妹のエレンは毎日それはそれは楽しそうにしているけれど、それに反比例するように兄のエレンは毎日悶々として過ごすことになった。 ある日、エレンがリビングで菓子を漁っていると、妹のエレンが目の前に立った。菓子の入った箱をしゃがんで漁っていたエレンは必然的に彼女を見上げることになる。 「エレン、」 彼女はエレンを見下ろして言った。あの日と同じように、その唇には桃色のリップが塗られていた。 「なあに」 エレンは目をそらして、菓子が無造作に詰められた箱を意味もなくがざがさと音をたててみる。それでも聞こえてくるエレンの声は呪いのようで、どうしたって彼女から逃げられないんだとエレンは唇を噛んだ。 「明日、土曜日だけど母さんと父さんいないでしょう。うちに、リヴァイ先輩が来たいんだって。あ、リヴァイ先輩ってのは、オ、わたしの好きな人でーーていうかこないだ告白したら付き合うことになったんだけど」 「…へえ」 付き合うことになったんだって。エレンと、リヴァイ先輩、とやらが。しかも明日来るだって?両親がいないから?オレはただの邪魔者じゃないか。つまりこう言いたいんだろう、「明日先輩とセックスするから友達と予定入れとけよ」ってね。 エレンは不貞腐れた顔を見られないように俯きながら、「ふうん」と言った。そんなの家に残っててやると思う気持ちと、残っていたら結局二人がいちゃつくのを目の前で見せられてただ虚しくなるだけだと思う気持ちと。エレンは目の前の菓子の詰められた箱をかきまぜた。 「だから、ちゃんと部屋とか片付けといてね!あと家にいるんならーーまあ予定ないだろうからいるんだろうけどーーちゃんとした服装でいて」 エレンはびっくりして、思わずぽかんと口を開けて妹に阿呆面を向けてしまった。家にいるだろうけど、だなんて言われると思わなかったのだ。てっきり邪魔だからどっか行ってて、と言われるのかと思っていた。 「なにその顔。とりあえず明日よろしくね」 エレンは言い終えると、軽い足取りで自室へ向かった。エレンの心中なんて知りやしない彼女はどこまでも美しいままだった。 次の日、エレンは早くから目が覚めてしまっていた。だって、妹の彼氏が、自分の手からエレンを攫っていった男が家に来るのだ。目が冴えてしまって、寝れるわけがなかった。 エレンは早々に布団から出て、昨日エレンに言われた通りにきちんとした格好をしておいた。窓の外を見ると、灰色の雲が重く垂れ込めていた。 二人で昼食をとった一時間後、とうとうインターホンが鳴った。二人してリビングでだらけていたのに、妹のエレンはその音を聞くとパッと立ち上がって玄関まで駆けていった。兄のエレンは嫌に心臓が重いのを感じながら、ソファに転がるクッションに顔をうずめた。 エレンのいつもより高い声と、聞きなれない男の声が家の中に入ってくる。エレンはクッションにうずめた顔を歪ませて、どうにかなってしまいそうな自分を必死に唇を噛んで堪えた。 「ちょっと、エレン」 いつも電話に出る時のエレンの声が上から降ってきて、エレンはクッションから顔をあげた。見ると、見知らぬ男が妹の隣に立っている。 こいつが、リヴァイ先輩か。 エレンはソファから立ち上がって二人の前に立った。ひどく無防備な気がした。 「エレンの双子の兄の、エレンです」 エレンが手を差し出すとリヴァイも応えて握手をする。エレンよりも小さな背のくせに大きな手だった。 「リヴァイだ。本当に同じ名前なんだな。一見同じ容姿だがーー一番わかりやすいのは、瞳の色か」 その台詞に、エレンはなぜ妹が彼を好きになったのかが分かった。分かってしまってから、もうこらえることができそうにないと、握手をした手をそっと離す。エレンの手はじっとりと手汗をかいていた。 「オレ、お茶用意してくるから」 そう言って、エレンは台所に逃げ込んだ。だってもう、いろいろと限界に近い。無心でお茶を用意しようとする。だけど、だけど。妹のコップはいつも使ってるやつで、先輩のコップはーー。エレンは自分のコップを手にとって、妹のものと並べた。昔、母親が二人に色違いで買ってきてくれたもの。兄のエレンは猫の絵、妹のエレンはうさぎの絵。このコップをもらってからはいつも、二人で色違いのコップを使っていた。でも、それはもう、終わりにする。エレンはその二つを並べて置いて、急須に茶葉とお湯を入れた。それからぐるぐると中の湯を回す。急須の中で回る湯を感じながら、もう吹っ切れるのかな、と思った。彼になら、二人の顔を違うと、二人を違うと言った彼になら妹を攫われてもいいのかもしれない。ぐ、と唇を噛みしめる。色違いのコップは、もう双子のためのものではないと言い聞かせ、エレンは猫の絵のついたコップを手に取った。こぽぽ、と音を立ててお茶は急須からコップに注がれる。白い湯気が立ち上って、お茶の匂いが鼻をくすぐった。 ふと、エレンはリビングにいる二人を見た。 見なければよかったのだ、その時。 ガチャン、と大きな音が響いた。エレンが、急須とコップを落として割った音だった。それでもエレンの視線は二人にじっと注がれたまま。二人もエレンを見つめ、それから慌てて駆け寄ってきた。 「エレン、今ーー」 妹のエレンが手を差し伸べて、兄に触れようとした。 「っ、」 けれどエレンは、その手を振り払った。妹の傷ついたような顔を見て、エレンは一層動転する。 足元にはコップと急須の破片が散らばり、暖かなお茶が水溜りをつくっていた。 「ごめ、オレ、もう」 エレンは自分が何を言っているのか何をしているのか、よくわからなかった。ただ、すぐ前に目の前で行われた行為が脳裏に焼きついて離れない。目を閉じなくたって、思い出したくなくたって目の前に浮かんでくる光景を、信じたくはなかった。 エレンは玄関で走って、サンダルに足を突っ込んで外に飛び出した。無我夢中でどこに向かっているのかも分からず、ただただ走り続けた。走って走って走って、それでも目の前に浮かぶ光景は消えることなく、むしろより鮮明になる。 隣同士座った二人は、距離をつめて、つめてそして顔が近づいてーー。 エレンはそこまで思い出して、立ち止まった。足が重い。 周りを見ると、幼い頃によく遊んだ公園があった。エレンはふらふらとそこへ向かって、ベンチにドサリと座り込んだ。 思い出したくないのに。 あんな妹なんて嫌いだと、エレンは胸中で呟く。 「あんな妹なんて、嫌いだ」 実際に声に出してみると、一気に胸が苦しくなった。 あの状況になったのは、決してエレンのせいじゃない。誰のせいかといえば、それは誰のせいでもない。それを分かっているから、エレンは余計に嫌になる。でもだって、どうしたらよかったというのだろう。 エレンはベンチの足元の雑草をぶちぶちと引き抜いた。涙なんか、出やしなかった。 131215 こまち |