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相互依存


どうしたって二人は二つだったの続き。

風呂桶にためられた湯に浸かりながら、エレンはふと自分の手の爪を見た。
(そういえば今日、蜜柑をむくときに爪に蜜柑が入り込んだんだった)
のびた爪を眺めながら、後で双子の兄のエレンに切ってもらおうと考えていたのを思い出す。別に、自分で切ってもいいのだけど。お互いの爪を切ることは、随分と前から当たり前になっていた。爪切りといらない広告を持って来れば、無言で相手の爪を切る。そうしている間に、切る側は相手の爪や指や手を愛おしみ、切られる側は何か安心のようなものを感じるのだ。それは刃物を向けられている中二じみた安心感だとか、全てを相手に預ける安心感だとか、たくさんのものが混ぜられたものだ。
エレンは湯の中で体を揺らした。まだ湯の温度は高く、肌に心地よい。ゆっくりと水面を撫ぜた。入浴剤を入れられて変色した湯は、それでも吐き出す湯気の色を変えることはしていなかった。

エレンは風呂から上がると、すぐに広告と爪切りを持って兄のエレンの部屋に向かった。ろくに乾かしていない髪から水滴が滴って部屋着の上に羽織ったグレーを濃くした。風呂上りの火照った体は、階段を上るにつれて冷たくなっていく空気をものともしなかった。手に持った、冷えていたはずの爪切りだってエレンの体温で暖かくなっている。
扉をノックすると、「はあい」と返事が聞こえた。
「入るぞ」
声をけて、ドアノブを捻る。中にはエレンが、学習机の前の椅子に体育座りで座っていた。外からでは聞こえなかったが、音楽を聴いていたらしい。昼間と同じ、異国の音楽が静かに部屋の中を流れていた。LEDの白が、無情なまでの白が部屋を明るくしていて、何故かエレンは部屋に入るのを一瞬躊躇った。
彼の目の色と同じ色のパーカを羽織ったエレンは、エレンよりも先に風呂に入ったからしっかりと着込んでいて部屋も暖かい。ぺたぺたとエレンに近寄って広告と爪切りをずいと彼の目の前に突き出すと、エレンは困ったような顔をしてエレンを見上げた。その目は、白の中なのに、昼間見た暗いくらい水底のようだった。エレンがそれを不思議に思う前に、彼は広告と爪切りを受け取ってエレンを誘いマットの上に座った。

エレンは緑の瞳を細めてエレンの細っこい、それでもごつごつした手をとった。滑らかな肌に指で触れて、それから両手でエレンの手を包み込んだ。青年の手だ。この手が、…この手を。
エレンは広告を広げ、その上に彼の手をかざした。真上から照らすLEDが、広告にくっきりと手の形の影を形作った。エレンは爪切りを手にとってエレンの爪に当てる。
パチン、パチン、パチン。
昼間もリビングで流れた、Taylor Swiftの曲が空気を流れる。音量を一番下まで下げた彼女の声は静寂をより一層際立たせた。
パチン、パチン、パチン。
パラパラと爪を広告に落とす。
(エレンの指の形も、爪の形も、全て綺麗だ)
パチン、パチン、パチン。
パラパラと爪を広告に落とす。
(そう、全部。全てが。何一つ、オレが汚していいものなんかない。何一つ、オレがつなぎとめられるものなんて)
パチン、パチン、パチン。
パラパラと爪を広告に落とす。
(なのに、昼間のあれは何があったの。エレンが離れることはあったとしても、オレが離れることなんてないのに)

それからエレンは、切り終えた爪にやすりをかける。摩擦で少しだけ、焦げ臭い匂いがした。
じっと視線を落としているエレンに、しかしエレンはいつもの安心感を感じることがなかった。それよりも、不安が大きい。エレンの先ほどの、動きのない水底のような緑色が目に焼き付いて離れない。自分がエレンの部屋を尋ねるまで、エレンは何か考え事をしていたのだろう。何を?
「…エレン」
静かな自分の声に、エレンはエレンの爪からハッと目を上げる。その暗い緑を射抜くように、エレンの銀色が見つめた。エレンはいたたまれなくなったように目線をそらそうとするが、しかし銀色で射抜いたエレンがそれを許さない。
「何か、あったの」
エレンのその言葉に、彼の指の間からは爪切りが落ちた。それは下にひかれた広告に当たって、爪の破片をマットに散らかした。
「なにもないよ」
身を固くして囁いたエレンに、エレンは片眉を釣り上げる。いつのまにか、部屋の中に充満していた女性の歌声は止まっていた。
「あったんだろ。お前、なんもないって言うならそんな暗い目でいるんじゃねえよ。なんもないなりに、してろよ。オレたちはまだ、これでもまだ二十年も生きてねえんだよ。これからだって、どうなるかわかんねえだろ」
段々とエレンの声はきつくなっていく。膝立ちになって、自分を見上げる顔を両手で挟みこんだ。
「隠すんじゃねえよ。少なくとも、こうしてオレと二人でいるときに隠すんじゃねえよ。そしたら…そしたらわかんねえだろ。言わねえとわかんねえよ、オレたちだって双子だけど、兄弟だけど、一人ずつの人間だろ!」
見上げる緑が、みるみるうちに水に覆われていく。それは零れて、こぼれて、ころころとエレンの頬を伝った。今まで静かだった湖面が、動きだし、濁りを吐き出す。
「だって、だって。エレンは、お前はオレよりもなんでも優れてて。昼間、お前、オレに離れるなって言っただろ、だけどそんなことあり得るわけないじゃないか、あり得るとしたらエレンが離れることの方がよっぽどありそうなのに。お前はわからないんだ、オレが言葉にしたって伝わらない、薄まるだけだよこの感情は。いつだってエレンのことを思ってて、考えてて。オレなんかいなくたってきっと、エレンの世界は」
廻るでしょう、と続けようとした言葉は、叶うことはなかった。その前に、エレンがエレンの頬を打ったからだ。ぱん、と乾いた音がした。しばらく呆然とした後、打たれた頬はだんだんと熱を持ち痛みを伴う。何があったのかを把握して、自分の頬を打ったエレンに「なにするんだよ」と言いかけて辞めた。見上げたエレンの顔があまりにも歪んでいたからだ。
「馬鹿か!そんなこと、そんなこと考えてたのかよ!オレがエレンのことをいらなくなると思ってたのかよ。この馬鹿、阿呆、ああもう!オレはエレンがいなきゃやだよ、エレンが欲しいよ、エレンに想っていてほしいよ。オレが全てにおいてお前に勝ってるなんて、そんなことあるわけないだろ。エレンにかなわないことあるよ、たくさん」
エレンは綺麗な銀色を発狂せんばかりの金色に変えて、髪を掻きむしった。こんなに、こんなに、と。必死だった。どうしたって言葉では伝わらないこの思いを、言葉でしか伝えられない思いを伝えようと。
「なあ、エレン。エレンはオレに、どうしてほしい?」
今度は先ほどとは逆に、エレンの金色が緑色を見上げる。エレンは濁りの抜けた、透き通った緑を揺らめかせて、暫く迷った後に口を開いた。
「…エレンが、欲しい。あいして。オレをおもって。オレと同じか、それ以上に。この手に、身にあまるほどに」
静かに、それでも激しく言ったエレンに、エレンは勢いよく唇を押し付けた。押されたエレンは咄嗟に後ろに手をついた。二人の唇は何度も何度も、角度を変えて重なり合う。エレンは先ほどエレンの頬を打った手でエレンのパーカを掴み、エレンを立ち上がらせる。彼をベッドに投げて、自分はパーカを脱いだ。切られた爪は片付けられることもなしに、LEDの光を反射することもなくただ散らばったままに横たわる。エレンはまた、エレンに覆いかぶさると口づけを再開する。今度はエレンの唇を舌で舐め、口をこじ開ける。
「は、…んン」
舌の根元をつついてから、裏をぐりぐりを押すとエレンの口からは吐息とも喘ぎ声ともとれぬ声が漏れ出した。ぐちゃりと音を立てて舌を絡めて、エレンの口内を貪る。これ以上エレンが寂しいと感じぬよう、満ち足りていると思うよう。どちらのものとも分からぬ唾液が、エレンの顎を伝って首に垂れた。いつもより貪欲な口づけは、二人を依存させるには充分だった。


131208 こまち